

下北沢スズナリ劇場で流山児★事務所創立40周年記念公演!!、2つのバージョンを日替わりで上演するという特別企画、流山児★事務所のスマッシュヒット作品で再演も重ねている『ハイ・ライフ』を連夜観劇。
流山児演出による年齢層がちょっと高い(マチュアな役者、と言っておこう)キャストたちによる上演と、平均年齢がもっと若いキャストたちによる西沢栄治バージョン。
対面式の客席中央の橋渡スタイルの舞台に最小限の − 冷えたビールや冷えたブツが入った冷蔵庫と数脚の椅子、途中の車内のシーンでは車のシートとなる椅子、それに流山児版では4台の簡素なベッドと映画「荒馬と女」を映し出すスクリーン −といったほぼ同じ美術の中で同じ戯曲(リー・マクドゥーガル)が上演される。
劇団の回し者でもなんでもないのだが、せっかくなので、ぜひこれは2バージョンを観て欲しい。それぞれが、それぞれの言葉にならないことば、それは残された時間から来るものであったり、若さゆえの無防備な楽観であったり、キャストの間に流れる絶妙な間合いであったり、、があってぜひ見比べてもらいたいからだ。
流山児★事務所の常連千葉哲也と塩野谷正幸の掛け合い、怒鳴り合いを楽しむも良し、塚原大助、44北川のゴツプロ!コンビの狡猾&コワモテ男たちのぶっ飛んだ会話を楽しむも良し。
たかが4人だけ、と侮ることなかれ!
4人の超個性的な男たちの1時間50分の暴走劇は瞬き厳禁のテンションで見応え十分だ。
再演を重ねている舞台だけに、以前にも観たことはあるのだが、今回の発見としては盗みの常習だが心優しいドニーの存在感。4人の中での彼の役割がいかに大切か、ドニーを演じた若杉宏二(流山児版)と山下直哉(西沢版)の好演もあり心に残った。
ラッキーにも劇作家のリー・マクドゥーガルが観劇のため東京を訪れていて観劇していた回だったので、突如インタビューを敢行。近日中にバイリンガル演劇サイト jstages.com に掲載予定
中央の横に長い演技スペースを観客席が挟む対面方式
下手に冷蔵庫、椅子が4脚。4隅のベッド。
開幕前に、映画「荒馬と女」The Misfits。現代の意味は「(社会に)適合しなくなった者たち」という意味である。作者の意図がズバリ。1961年公開のアメリカ映画であり。マリリン・モンロー、クラーク・ゲーブルの遺作。そう、この作品の本質、「適合しなくなった者たち」なのであろう。
『ハイ・ライフ』は、モルヒネ中毒者4人の物語 銀行の機械を奪うために。ワイルドで、コミカルで、開始後30分後から笑ってしまった。ディック(千葉哲也)は、非常に狡猾で経験豊富な前科者で、リーダー。旧友や刑務所の仲間たちをチームしてまとめていく。病弱な犯罪者ドニー(若杉宏二)は天才、そして暴力的なバグ(塩野谷正幸)、そして女にモテル新人ビリー(小川輝晃)という4人。
今回も完璧な計画ではなく、杜撰な計画で銀行強盗を実行していく。流山児演出は、この4人の性格、考え方を丁寧に描き出していく。それは滑稽でもあり・・・。塀の中の人間は裏切らない、たった一人ビリーは塀の中に入っていない。塀の中では、衛生管理ができていて、エイズなんかに罹患することはない。麻薬を打ちまくっても。 享楽的な暴走・・・死にたい・・上手いな。
装置はシンプルで、音楽は最小限(しかもそれがセンスよく)、虚飾を排した演出の中でエネルギーをぶつけ合う俳優たちの肉体的説得力が見事でした。北京を初めとして、海外各地でも喝采をもって迎えられたとのこと、当然のことと思われます。
今回、Wバージョンで、2本とも観劇する機会を与えてくださったことは本当に感謝しております。こうした経験は初めてでしたが、観客にとってこれほど面白く、興味深いものだとは思いませんでした。
作者が俳優出身なので、役者が演じたくてたまらなくなるようなシーン(車中での4人の経過待ちなど)がふんだんに盛り込まれていますが、その中の一人ひとりの見せ場で、それぞれの俳優が、別バージョンの同役の俳優とは異なる演じ方をするので、各人の個性や魅力が一層鮮明に浮かび上がっていたと思います。
ビリーの挑発をじっとこらえているときのバグ、ボロボロの内臓を抱えながら、ギリギリのところで踏みとどまって一定の自制を受け入れつつ(自暴自棄になり得ぬ賢明さゆえ)、生をつなごうとしているドニー、銀行の窓口で計画を実行しようとするビリーの手練手管など、演じ方の違いにそれぞれの俳優の魅力が凝縮され、彼らの一挙手一投足が作品全体のテイストに影響を与えていく様子を目の当たりにして、あらためて演劇の醍醐味を味わったような感覚でした。
そして何よりディックです。誰でもこの役を一度演じたら、絶対ほかの役者に渡したくないと思うのではないでしょうか。まず昼に西沢演出バージョンを観て、塚原さんの魅力に圧倒されました。まさにはまり役であったと思います。今まで舞台を拝見したことはありませんでしたが、本当にいい役者さんだと思います。
そして夜に流山児演出バージョンを観て二度びっくりでした。再演を重ねてきた演出力(要を得て簡潔)と、キャリアを積んだキャストが生みだす抜群の安定感というのもありますが、千葉さんのディックに完全にノックアウトされてしまいました。本当に素晴らしい。
もはや、「“あてがき”されたかのよう」という比喩のレベルを越えて、「ディックを演じるために生まれてきた」といった感じで、水を得た魚のように、実に生き生きと演じておられました。シライケイタさんがそうであるように、様々な演出の経験が俳優としての仕事に大きな糧を与えてくれているのかもしれません。
一人で踊る場面がありますね。あれなども「踊る仕草をする」ではなく、本当に踊っているのです。優雅に楽しそうに。この人は本当に音楽に乗れる、音感、リズム感を持った人だなあと思いました。その感覚が、作品全体の緩急をつかんでいて、本当に気持ちよさそうに戯曲の中を泳いでいて、それにより他の3人も生き生きと彼らの世界を回遊できていたのではないかと思います。
塀の中を経験した3人が、外界との唯一の接点である「映画」に夢を託し、あるいはそれを得て、生への執着を見せるのに対して、娑婆しか知らない若いビリーが閉塞感を抱いて間接的自殺を図るのは何とも皮肉なことです。
ディックは最後までバグに対して「俺はお前を見捨てない」と言いますが、それは「自分を見捨てない」、すなわち「人間を見捨てない」ということでもあるのでしょう。
今後も流山児★事務所の財産演目として、この作品が永く生き続けるよう願っています。清水邦夫の『楽屋』のように、今度はあの4人を誰が演じるのだろうと、観客の興味は尽きないでしょう。
○もちこ(23)
満足度★★★★
「余裕あり。ふらりとどうぞ」「余裕あり。今すぐ予約!」
朝に夕に流れてくる流山児主宰の気迫のFacebookに、大楽の1本だけ観るつもりがどうしても両方観たくなって、無理矢理予定をこじ開けて両バージョンを拝見した。
しかし、肉体的にも精神的にも、ここまで激しくぶつかり合う芝居ってまずお目にかかれない。
「悪の美学」なんてかっこいいものではなく「どうしてそうなるんだよ」「何考えてるんだよ」とツッコミながら観ているのに、それでいて、このブザマな4人の男たちが幸せになってほしいと祈ってしまうのはなんだったんだろう。
まず西沢バージョンを拝見して、塚原ディックの膨大な台詞からあふれる説得力にこちらまで納得させられそうになり、バグ、ドニー、ビリーそれぞれのジャンキーたちにあり得ない感情移入をしてしまい、やっぱりこちらも観てよかったと興奮気味に思ったのが先週のこと。
その後に流山児バージョンの千穐楽。
そこでもう一段、腰が抜けた。
これだけの役者さんの、これだけの真剣勝負が観られるってどんだけ贅沢なんだ!
ここまですごい芝居が観られるとは思わなかった。単純に、いや、もう、とにかく面白かった。理屈じゃない。
ストーリーは先にわかっていながら、金縛りにあったような状態で口を開けっぱなして観ていたと思う。
この日この時間に自分がこの場に居てこの作品が観られたことに、とてつもない幸せを感じた。
これが区民割引で4000円!安すぎる!
〇FIG FIG(351)
満足度★★★★★
流山児演出を鑑賞。ヤク中で愚かな、更正する気配のないワル達が犯罪計画を実行するストーリー。最高に手練れた俳優たちが役を手中に収めて活き活きと演じており、これ以上の舞台が望めるとは思えないが、もう一つの演出バージョンではどんな感じなのだろう。
〇うさぎライター うさぎライター(1794)
満足度★★★★★
このジャンキーたちの疾走感はどこから来るんだろう?
ムショから出たり入ったりを繰り返す行き当たりばったり人生の、どこからこんな転がるようなスピード感がほとばしるんだろう?怒涛の台詞に見ている自分が前のめりなっていくのが心地よい1時間50分。終わり方がまた心憎い。
みんな破たんしたような人生なのだが、一人ひとりを見ると誰もが持つ弱さを体現していてその個性は哀しいほど魅力的だ。
銀行の前に止めた盗難車の中で、仲間割れしそうなメンバーを必死でなだめるディックの呼吸につられて、観ている私の肩に力が入る。いつ爆発するかと息をのんでバグを見ているときも、どもりながら言い訳を重ねるドニーを見ているときも、”殺られる前に殺る”気分でナイフを突きつけるビリーを見ているときも、、彼らに感情移入せずにいられない。一緒に切羽詰まって追いつめられて、私の気分もどん詰まりだ。そしてものの見事に、計画は失敗に終わる。
ビリーの挑発を受けて、逆に彼の手からナイフを奪って刺し殺してしまうバグ。血にまみれたナイフを、気を失ったドニーの手に握らせて逃げるバグとディック・・・。
なのにあの終わり方、爽やかな明るさは何だろう?
ドニーは刑務所から病院へ送られ、必要な臓器移植手術を受けて元気になった。そしてバグの「なあ、ビリーは俺に殺されたかったんじゃないか?」という意味のひと言。救われないジャンキーが皆救われて、また笑って次の計画を考え始める。失うもの、守るべきものを持たない彼らジャンキーは、ある意味最強だ。
この4人全員に感情移入させる役者陣が秀逸。台詞もキメッぷりも凄まじいほどのリアリティに首根っこを押さえつけられた感じ。
すごいホンだなあ。モルヒネさえあればハイ・ライフ!
次の銀行強盗に失敗しても、ハイ・ライフ!
○NMD86(23)
満足度★★★★★
前作があまり私の好きなものではなかったので、この劇団2回目を見ても同じ感想ならばもう見ないかなとかなり失礼な気持ちで拝見しました。
前作とはストーリーが全く違うので、単純に比較出来るものではありません。
しかし今回の舞台は、大きな声で怒鳴るシーンも多々ありましたが全く気にならなかった。
むしろ、とてもリアルな感じでした。
上演時間1時間50分があっと言う間に感じられ、自分でも驚きました。
そして見る前に大変失礼な気持ちで出向いてしまったこと
心からお詫び申し上げたい素晴らしい作品だと思います。
〇0301(2)
満足度★★★★★
流山児版を観劇。
役者さんたちが素晴らしかった。
とりわけ塩野谷正幸が素晴らしかった。
個人的にはもっと正面から老いと対峙した「Born to run」が聴きたかった。あるいはジョニーキャッシュ版の「Hurt」のようなものが見たかった。
★流山児祥演出バージョン〜
流山児さんのパワー炸裂、めちゃくちゃ面白い舞台でした。
彼の演出は緩みがないと言いますか、キャラクターそれぞれのエネルギーがほとばしるがままにして、妙に「まとめ」たりせず、高圧の状態を保ちながら、幕切れをも突破して行きそうな幕切れに持って行くところが素晴らしいです。
以前のヴァージョンを観ていないし、今回の西沢ヴァージョンも観ていませんから、比較はできませんし、よしんば観ていたとしても、比較などという「見巧者」「劇通」「批評家」っぽい視点でものを言いたいとは思いません。ぼくにとっては、自分が実際に身を置いたその都度の劇場空間がすべてです。記憶などは邪魔物です。
実際に観ていれば記憶は残り、否が応でも比較してしまうと思いますが、身のうちに余計な要素がなくてよかったと思っています。
ただ、昔何かで読んだ話に、70年ぐらい前のカリフォルニア、それもサン・クウェンティンという刑務所で、ベケットの『ゴドーを待ちながら』が上演されたとき、収監されている囚人たちは、たちどころにこの「不条理劇」を理解した、というエピソードを思い出しました。
シャバは広く、深く、ごった煮のように「異種」の人生ーー思惑や欲情や裏切りやバカな失敗や夢やツッパリ、その他もろもろーー含んでいる。流山児さんのシャバ肯定感は白熱の熱さですね。ごった煮をまるごと肯定するところからしか(演劇)文化は生まれないだろうということなのですね。
★流山児祥演出バージョン〜
前回2001年公演の際は、カナダ都市部の、無機的な倦怠感の中で、生きる証として刺激を求める人間の姿を感じたのですが、今回は、そうした国籍を越えた、人間存在の悲喜劇というもっと普遍的な要素を感じました。
正直、喜劇として楽しませていただき、コミカルな要素を堪能いたしました。これを支えていたのは、なんと言っても流山児さんの演出と塩野谷さんを始めとする方々との双方が放つ、厚みのある「芸」の力でした。これは熟練した演出と年輪を重ねた演技とが実現できる技と存じますが、性質は全く異なっても、古くは、滝沢修の『セールスマンの死』で感じた、翻訳劇であっても
上演を重ねて翻訳劇の匂いを吹き飛ばした、日本人による普遍的な劇になっていたと存じます。(あくまで普遍的という意味で、日本人による土俗的な匂いという意味ではありません)
翻訳劇という、小山内薫以来、日本の演劇が育んできたジャンルの、貴重な舞台だと存じました。演じる方々が実年齢より若い役を「芸」で表現する要素を、非常に堪能しました。(これは歌舞伎もそうだと存じますが、「虚構」のほうが、真実味を帯びる のであろうかと存じます)
お芝居では、現代人の抱える「閉塞感」を、覚せい剤が象徴する「刺激」で忘れようとする営みに共感しましたが、それが序曲となり、彼らが「閉鎖感」打破の理想として「犯罪」を志向するさまにも入っていけました。
そして、素晴らしかったのは、市民社会の健全な価値観に安住しようとせず、麻薬とか犯罪にしか生きた実感を得られない、病理とも捉えられる深刻さが、喜劇という意匠を通じて表現されたことです。
前回は、どうしても車とアスファルトが象徴するような、倦怠感(けだるさ)の匂いのする風土をつい連想していましたが、今回はそれが、言い知れぬ都市の悲しみとして、掘り下げられていたと存じます。
私は前回も、ビリーにエイズ感染という隠し事を感じたのですが、それが前回ほど深刻に感じられず、人間が出会うひとつのアクシデントとして描かれていたように思え、お芝居として楽しめる要素になったと思います。(エイズ自体、死の病いでなくなったこともありますが……)
とにかく上演を繰り返されたことにより、舞台がたいへん洗い上げられて、そしてそれがけっして内なる発信力、人が心中に発する秘める叫びを弱めることのない舞台になっていたと存じます。 素晴らしいお芝居をありがとうございました!