とても素敵で鋭い山田勝仁氏(演劇ジャーナリスト)の「劇評」が出ました。
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福田善之1964年の作品「袴垂れはどこだ」は圧政に苦しむ寒村の村人たちが幻の義賊「袴垂」を求めて、ニセの袴垂れ集団となり旅に出る物語だった。
60年代アングラ小劇場に通底する、「ここではないどこか」を希求する若者たちの姿はシライケイタの前作「舞台版 実録・連合赤軍あさま山荘への道程」 の、理想の世界を求めながら破滅していく若者たちの姿と重なる。
そして今、SPACE早稲田で上演中の日本劇団協議会主催「SCRAP」は1950年代末に大阪城の東側一帯にあったアジア最大の軍事工場「大阪砲兵工廠(こうしょう)」跡地で屑鉄泥棒で生計を立てる通称アパッチ族の若者たちを描いたもの。彼らのほとんどは在日朝鮮人。戦後、疲弊した日本経済が立ち直るきっかけになったのが1950年に勃発した朝鮮戦争で鉄、金属が高騰したこと。同じ民族間の戦争による経済恩恵で息をつくという不条理を在日朝鮮人たちは味わった。
開高健「日本三文オペラ」、小松左京「日本アパッチ族」などの小説で取り上げられたことで「アパッチ族」の名前は一般的になった。舞台では坂手洋二作・金守珍演出の「東京アパッチ族」が90年代末に上演された。
今回は、アパッチ族の出自と設定する「韓国・済州島四・三事件」が芝居のモチーフとなっている。
戦後、アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある韓国の済州島で自主独立を目指した島民の蜂起に対する大弾圧。国防警備隊、韓国軍、警察、右翼青年団などが女子供含む島民30万人のうち6万人を虐殺した事件だ。
戦争が終わり、民族の独立を果たしても、米ソ東西陣営の軍事的駒として引き裂かれた南北朝鮮。
南では虐殺、一方で、「地上の楽園」といわれた「共和国」への帰還運動の結末の痛ましさ。 シライケイタ(役者としても出演)は「あさま山荘」と同じく、「理想」を求めながらも裏切られていく若者たちの悲痛な叫びに主眼を置いている。
四方を客席が取り囲む狭いスペースを使い、猥雑でエネルギッシュなアパッチ族たちの跳梁と内省的な「静」の場を描き分ける日澤雄介の切れのいい演出が光る。 月船さららが胸の奥に哀しみを秘めた「パイコ」をいつにもまして艶っぽく演じ、景品買いの清水直子は気のいい在日のおばさんを、ホンミョンファ(洪明花)は、気風のいい姐御肌の妻を、佐原由美は言葉を失くした儚げな少女を、それぞれ濃密に演じた。
男優陣がまた素晴らしい。 アパッチたちを統べる「組長」栗原茂の重厚篤実な芝居、アパッチの頭脳ともいえる「ハカセ」シライケイタの軽妙な芝居、舞台の要であり、唯一の日本人で彼らに溶け込んでいく「ヒノマル」西條義将(在日が彼につけたヒノマルという愛称は、戦時中の陰惨な記憶に結びつくだろうから、この愛称にはちょっと違和感あるが)が舞台を引き締める。障がいがあるゆえ、お荷物になることを拒む「カカシ」上田和弘の哀しみ、何かにつけハカセと角突き合わせる肉体派「ブル」イワヲ、舌先で鉱脈を嗅ぎ当てる「グルメ」里美和彦、遠い世界を夢見る「トオル」木暮拓矢、逃げ足の速さはピカイチの「トンチ」伊原農。 イワヲの目の演技がいい。いろんな役どころを観てきたが、今回の芝居は役者として実に魅力的。「あったことをなかったことにしてはいけない」というのが、この作品の底流にある主旋律だろう。
生きることは食うこと。食うことに人間の「生」のダイナミズムを象徴させる冒頭の徹底した演出が面白い。ロマンチシズムとリアリズムが切り結ぶシライ戯曲の新展開。2時間ノンストップ。息つく暇もないエンターテイメントに仕上がっている。ただ、現代の視点が勝ちすぎてる箇所が気になった。
17日まで。