公演情報

シアターRAKU 2025
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原作:W・シェイクスピア
台本:山元清多
演出/流山児祥
音楽/高橋牧(時々自動)
振付/北村真実(mami dance space)



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2025/05/05 (月)〜17 (土)

@Space早稲田

 


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こちらから


『冥王星の使者』



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作⦿高取英
(月蝕歌劇団)

脚本・演出協力⦿天野天街
(少年王者舘)

演出⦿流山児祥

音楽⦿巻上公一
(ヒカシュー)

人形製作⦿山田俊彦
(人形劇団ココン/ITOプロジェクト)
 

 

流山児★事務所
2023年度 新人募集
劇団で活動することに興味がある人を募集します。

【募集人員】
6名 (俳優・スタッフ・制作)
18歳以上35歳未満。
国籍不問。心身ともに健康な男女

【第一次審査:書類選考】
以下を流山児★事務所まで郵送してください。
(1)履歴書(連絡のつく電話番号とメールアドレスを記載のこと)
(2)写真1点(バストアップ)
(3)作文「流山児★事務所に入団してやりたいこと」(400字程度)


【第二次審査:実技・面接】
書類選考通過者のみ、連絡いたします。
※実技審査料3,000円は当日持参のこと。
※スタッフ・制作は面接のみ(無料)です。

【入団後の活動】
流山児★事務所の活動に準じていただきます。
優秀な新人は劇団公演、海外公演などに参加できます。

【お問合せ・応募先】
流山児★事務所 新人募集係
〒162-0045 東京都新宿区馬場下町60番地 まんしょん早稲田307
TEL:03-5272-1785(平日13時〜17時)
E-MAIL:mail@ryuzanji.com

情報詳細
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続々オールド・バンチ〜カルメン戦場に帰る〜 DVD
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『ハイライフ』劇評 そのC[ハイ・ライフ]
劇評  竹森俊平(経済学者・明海大学教授)
いつもステキな長編劇評ありがとうございます。

リー・マクドゥーガル:作『ハイ・ライフ』
 流山児祥、西沢栄治 演出
 大学生活を送ったのは40年も前になるが、その頃、フランスの映画、演劇が好きな人々の間ではアルトーという評論家の「残酷の演劇(テアトル・ドゥラ・クルオテ)」という言葉が流行った。自分流の勝手な解釈では、演劇は高尚な生活や理想をテーマにするのではなく、「生きるか、死ぬか」の掛かった存在の問題に焦点を当てるべきという考えだと理解している。

 昨年は「残酷の演劇」の素晴らしい公演が日本でいくつも行われた。まず小川絵梨子が演出した新国立小劇場での「ピロー・マン」(マーティン・マクドナー)。これは二人の兄弟が、将来幸せな生活を送れそうもない子供が死の苦痛を避けることができるように、次々安楽死させる物語だ。それから流山児★事務所が制作し、三上陽永作、日澤雄介演出の『流れる血、あたたかく』。  これは秋葉原大量殺人事件の犯人が主役だった。

 こうした系列からすると、本年、流山児★事務所が16年ぶりに再演した「ハイ・ライフ」はリー・マクドゥーガルが1998年に初演した「残酷な演劇」の先駆的な作品ということになる。

 他の二つの作品と同様、「ハイ・ライフ」でも殺人が物語の鍵となる。また登場する人物は、「死ぬか、生きるか」の問題と昼夜直面している。ただ、こうした「残酷な演劇」にわれわれの心を強く打つものがあるのは、演じられるドラマが残酷一辺倒ではなく、どこかで「やさしさ」が表現されるからである。われわれは日常において、さほど存在の問題に直面することがない。他方で、他人の親切とか、好意に接し、心を和ませることはある。

 「残酷な演劇」の登場人物の日常はそうではない。彼らは文字通り「死ぬか、生きるか」の生活、存在の極限状態に直面している。叩かれ、叩かれる中で、そこから叩き返すことができるか、立ち直ることができるかという毎日の繰り返しだ。

 そうした中で彼らは唐突に「やさしさ」に出会う。それは予想しなかっただけに、またそういう状況では予想することが困難なものだっただけに、一層心に迫る遭遇となる。たとえて言えば、植生が考えられないような高地や寒地で植物を見つけるようなもの。「残酷な演劇」がわれわれに与えてくれるものはこの喜びだ。それはわれわれの感性を豊かにし、人間性を豊かにしてくれる。

『ハイ・ライフ』はまさにそのような芝居だ。今回の二つの演出による上演は、われわれにそうした喜びを与えてくれる比類ないものだが、二つの演出の違いについて個人的には「残酷さ」と「やさしさ」の線引きに注目している。つまり、この芝居で「残酷」が支配する領域がどこまでか、そこから先は「やさしさ」が際立つ領域がどこからか、という選択が、演出家、俳優によってなされる。若い俳優たちが演じる西沢演出では「残酷さ」の境界線はかなり高いところに設けられている。何といっても、俳優たちは若く、俳優たちの演じる暴力はより直截だ。しかし、「残酷さ」の領域が高いところまで広がっているからこそ、ついにわれわれが「やさしさ」の出現に接するとき、その喜びは大きくなる。幕切れに近く、4人が停車した自動車に乗って銀行の状況を見る場面でディックが皆に「好きな映画」を問いかけ、ドニーが「サウンド・オブ・ミュージック」と予想外の答えをする場面。幕切れにバグが、「ビリーは死にたかったのではないか」と追憶する場面。そこで初めて感じられる「やさしさ」は心を打つ。
 これに対してベテランの俳優たちが演じる流山児演出では「やさしさ」の領域はより広がっている。いや、ここでは「残酷さ」と「やさしさ」は交じり合い、混然一体となっている。何といってもベテランの俳優には経験がある。彼らには自分自身の人間性を役柄に投影する方法が分かっている。彼らはまた深刻な場面でさえ客を笑わせることができる芝居のタイミングを知っている。それゆえ流山児バージョンは楽しめる芝居になっている。笑いあり、涙あり、これだけ4人の個性が強い俳優が息を合わせ、ドラマを盛り上げていくのを見るのはまことに壮観だ。

 この芝居の中でほとんどしゃべり続けるディックを演じる役者として、千葉哲也はおそらく世界のトップ水準だ。この物語はディックが悪だくみをして、それに感情的にも、利害的にも対立するほかの人物たちを巻き込んでいくという形で展開する。ほかの人物たちはディックの張った蜘蛛の巣の中に絡めとられていくのだ。そういうフィクサーとしての役割を演じるのに千葉は柔らかい体の動きを存分に使う。この芝居のセリフ全体の半分はディックが発しているが、千葉はあたかも自分の頭脳からそれが発せられているように、滑らかに確信をもってセリフを語る。

 彼らには麻薬の提供する瞬間的な快楽に抗えない共通点がある。ところが麻薬を買う金を得るために体も、生活もボロボロ。しかし極限状態に置かれているからこそ、競争意識は強く、自分の持ち物へのこだわりが強い。バグとドニーが憎悪しあうのは、バグがドニーに自分の大事にしているカセットを盗まれたと信じるからなのだ。

 こうした対立する個性をまとめるのは、さすがのディックでも大変だ。4人の登場人物が顔を揃える場面では必ず衝突が起こる。4人が初顔合わせをする場面は広い場所で行われ、ディックとドニーが一触即発のバグとビリーに「喧嘩を止めて薬をやろうぜ」とサインを送ったことで衝突は収まる。ところが二回目の顔合わせ、ついに銀行強盗を決行する場面では、4人は狭い車内ですし酢目になり、公衆の目前にいて薬を打つこともままならない。そのために衝突が激化し、ついに殺人にいたる。バグにナイフをちらつかせたビリーを、もみ合いのうちにバグがそのナイフで刺すのだ。

 この40分にも及ぶ銀行強盗の場面こそがこの芝居の白眉。この場面を流山児はパンフレットの解説でベケットの「ゴドーを待ちながら」に譬え、「来るか来ないかわからない瞬間を待つ」という4人の行為の演劇的な面白さを特記している。来るか来ないか分からない瞬間を待つことになったのは、金儲けの話をいつも持ち掛けるディックの計画というのが、そもそも眉唾ものだからだ。計画によれば、@いつものように無警戒に置かれた鞄から財布を盗み出したドニーは銀行カードで600ドルの現金を引き出す一方、60ドル分の受取証を保管する。Aその600ドルの現金と60ドルの受取証は女性にもてるビリーに渡され、ビリーはその二つをもって銀行の窓口に赴く。Bビリーは窓口の女性にATM機の故障によって、銀行が受取証の10倍の金額を自分に支払ったことを告げる。C機械の故障で損失を出したことを知った銀行はATM機の故障の修理のために修理工を送るだろうから、その修理工をホールドアップして、望むだけの金額をATM機から奪い取る、というものだ。

 だが冷静に考えれば、受取証の10倍の金額をATM機が支払うような事故は、システム障害による可能性が高いだろうから、銀行が修理工を送るだけで済ますはずはなく、問題に対処するつもりならATM機による返金をシャットダウンするだろう。人生の30年を刑務所で送っているディックの知恵など、所詮はその程度のものなのだ。

 ディックの知恵の程度はともかく、ビリーの窓口でのやり取りの後、狭い車内で4人の強盗犯が修理工の到着をひたすら待つ場面はまさに演劇特有の発想で、何回見ても笑いが止まらない。ディックはあと20分待てば、いや、5分待てばと、仲間割れ寸前の残り3人を引き留めようとするのだが、バグ、ドニー、ビリーの3人にはそれができない。いや、彼らにそれができるなら、こんな状況には追い込まれていなかったはずだ。彼らは瞬時の喜びのためにはすべてを捨て、長期の計画に従って行動するようなことはできず、喜びであれ、怒りであれ、悲しみであれ、すべて直截に表現せざるを得ない子供の心を持っているのだ。狭い車内で演じられるこの40分間の場面がおかしく、悲しく、われわれの心を打つのは、その直截な感情表現の爆発があるからだろう。

 しかしこの素晴らしい場面が可能なのは、それが演劇だからで、他の表現媒体、例えば映画では困難なのである。その証拠がある。この芝居は、実は一度映画化されているのだが、リー・マクドゥーガル自身が脚本を書いた映画では、ビリーと掛け合い600ドルを受け取った女性銀行員アルマ・アモーレは、その600ドルを持ち逃げし、しかもその逃げる場面を4人組は車の中から見るのである。これでは「来るか来ないか分からないものを待つ」というこの劇の一番素晴らしい主題が消滅してしまう。

 一体、マクドゥーガルはなぜ、このような愚かな変更を認めたのだろう。この劇の展開からもうかがわれるように、作者は映画に詳しく、それゆえ映画界に進出したいという野心を持っていたのかもしれない。それで演劇的には一番素晴らしいアイデアを、映画には向かないと考えて棄却したのではないだろうか。

 実際、この芝居でも一番見ごたえのある瞬間に映画の話が出てくるのだ。それは車内でバグとナイフを持ったビリーとが殺し合いに入るかという瞬間で、ここではさすがのディックでも、薬の力では紛争を解決できないために、「それでは映画の話をしよう。一番好きな映画の名前を一人一人言え」と切磋に持ち掛けるのだ。ディック、バグ、ドニーは長年刑務所で臭い飯を共にしたが、その時、毎週映画鑑賞の企画を担当していたのがディックだった。それで殺し合いという刹那にも、ディックは自分の好きな映画としてジャック・ニコルソン主演の「カッコーの巣の上で」を挙げる。次にバグはジョン・ヒューストン監督、クラーク・ゲーブル、マリリン・モンロー、モンティ・クリフトによる「荒馬と女」を挙げる。刑務所経験がないビリーは作品名を挙げられず、最後に「サウンド・オブ・ミュージック」と答えたドニーのチョイスに全員爆笑する。まさに「残酷さ」と「やさしさ」が背中合わせになった素晴らしい瞬間だ。

 ここでジョン・ヒューストンの名前が挙がったことをもとに、この作品の構想をリー・マクドゥーガルがどのように思いついたか自分なりに推理してみた。ジョン・ヒューストン(1906−1987)には、年齢が23歳しか違わない父がいる。マクドゥーガルと同じカナダ、オンタリオ州の出身(マクドゥーガルが通った大学のあるトロントの出身)で、ハリウッドで活躍した名優ウォルター・ヒューストンである。ジョンが自分の父を敬愛し、尊敬していたことはよく知られている。ウォルターは何度もアカデミー賞(主演男優、助演男優)にノミネートされたが、実際に受賞したのは息子ジョンが監督した1948年の映画「黄金(Teasure of Sieera Mader)」での助演男優賞だった。ウォルターは受賞の2年後、1950年に死亡している。

 この「黄金」という映画はいくつかの点で『ハイ・ライフ』と設定が似ている。第一に、主要な出演者に女優はおらず、男優だけ。しかも主要な登場人物(すべて男優)は4人だ。彼らも一種の犯罪行為に乗り出すのだが、目指すのは銀行強盗ではなく、メキシコ国境での金鉱探しだ。彼らのうち3人がまず金鉱採掘に取り掛かるのだが、金鉱が見つかりそうになったところで、ハイ・ライフのビリーのように4人目がやってくる。しかもビリーのように、一人だけハンサムなこの4人目はすぐ死ぬのだ。

 さらに『ハイ・ライフ』の登場人物と黄金の登場人物の呼応関係を考えてみると、犯罪のブレーンであるディック役としては監督の父、ウォルター・ヒューストンが浮かび上がる。実に堂々たる役作りで、長い長いセリフを見事にこなしている。バグに当たる人物は、恐らくここではハンフリー・ボガードが演じている。ウォルター・ヒューストンも、ボギーも、ここでは映画史に残る素晴らしい演技をしている。彼らの性格付けとハイ・ライフのそれの間にはもちろん明らかな違いもあるが、この芝居に気に入った方は是非、「黄金」も鑑賞されることをお勧めする。