★流山児祥演出バージョン〜
前回2001年公演の際は、カナダ都市部の、無機的な倦怠感の中で、生きる証として刺激を求める人間の姿を感じたのですが、今回は、そうした国籍を越えた、人間存在の悲喜劇というもっと普遍的な要素を感じました。
正直、喜劇として楽しませていただき、コミカルな要素を堪能いたしました。これを支えていたのは、なんと言っても流山児さんの演出と塩野谷さんを始めとする方々との双方が放つ、厚みのある「芸」の力でした。これは熟練した演出と年輪を重ねた演技とが実現できる技と存じますが、性質は全く異なっても、古くは、滝沢修の『セールスマンの死』で感じた、翻訳劇であっても
上演を重ねて翻訳劇の匂いを吹き飛ばした、日本人による普遍的な劇になっていたと存じます。(あくまで普遍的という意味で、日本人による土俗的な匂いという意味ではありません)
翻訳劇という、小山内薫以来、日本の演劇が育んできたジャンルの、貴重な舞台だと存じました。演じる方々が実年齢より若い役を「芸」で表現する要素を、非常に堪能しました。(これは歌舞伎もそうだと存じますが、「虚構」のほうが、真実味を帯びる のであろうかと存じます)
お芝居では、現代人の抱える「閉塞感」を、覚せい剤が象徴する「刺激」で忘れようとする営みに共感しましたが、それが序曲となり、彼らが「閉鎖感」打破の理想として「犯罪」を志向するさまにも入っていけました。
そして、素晴らしかったのは、市民社会の健全な価値観に安住しようとせず、麻薬とか犯罪にしか生きた実感を得られない、病理とも捉えられる深刻さが、喜劇という意匠を通じて表現されたことです。
前回は、どうしても車とアスファルトが象徴するような、倦怠感(けだるさ)の匂いのする風土をつい連想していましたが、今回はそれが、言い知れぬ都市の悲しみとして、掘り下げられていたと存じます。
私は前回も、ビリーにエイズ感染という隠し事を感じたのですが、それが前回ほど深刻に感じられず、人間が出会うひとつのアクシデントとして描かれていたように思え、お芝居として楽しめる要素になったと思います。(エイズ自体、死の病いでなくなったこともありますが……)
とにかく上演を繰り返されたことにより、舞台がたいへん洗い上げられて、そしてそれがけっして内なる発信力、人が心中に発する秘める叫びを弱めることのない舞台になっていたと存じます。 素晴らしいお芝居をありがとうございました!