装置はシンプルで、音楽は最小限(しかもそれがセンスよく)、虚飾を排した演出の中でエネルギーをぶつけ合う俳優たちの肉体的説得力が見事でした。北京を初めとして、海外各地でも喝采をもって迎えられたとのこと、当然のことと思われます。
今回、Wバージョンで、2本とも観劇する機会を与えてくださったことは本当に感謝しております。こうした経験は初めてでしたが、観客にとってこれほど面白く、興味深いものだとは思いませんでした。
作者が俳優出身なので、役者が演じたくてたまらなくなるようなシーン(車中での4人の経過待ちなど)がふんだんに盛り込まれていますが、その中の一人ひとりの見せ場で、それぞれの俳優が、別バージョンの同役の俳優とは異なる演じ方をするので、各人の個性や魅力が一層鮮明に浮かび上がっていたと思います。
ビリーの挑発をじっとこらえているときのバグ、ボロボロの内臓を抱えながら、ギリギリのところで踏みとどまって一定の自制を受け入れつつ(自暴自棄になり得ぬ賢明さゆえ)、生をつなごうとしているドニー、銀行の窓口で計画を実行しようとするビリーの手練手管など、演じ方の違いにそれぞれの俳優の魅力が凝縮され、彼らの一挙手一投足が作品全体のテイストに影響を与えていく様子を目の当たりにして、あらためて演劇の醍醐味を味わったような感覚でした。
そして何よりディックです。誰でもこの役を一度演じたら、絶対ほかの役者に渡したくないと思うのではないでしょうか。まず昼に西沢演出バージョンを観て、塚原さんの魅力に圧倒されました。まさにはまり役であったと思います。今まで舞台を拝見したことはありませんでしたが、本当にいい役者さんだと思います。
そして夜に流山児演出バージョンを観て二度びっくりでした。再演を重ねてきた演出力(要を得て簡潔)と、キャリアを積んだキャストが生みだす抜群の安定感というのもありますが、千葉さんのディックに完全にノックアウトされてしまいました。本当に素晴らしい。
もはや、「“あてがき”されたかのよう」という比喩のレベルを越えて、「ディックを演じるために生まれてきた」といった感じで、水を得た魚のように、実に生き生きと演じておられました。シライケイタさんがそうであるように、様々な演出の経験が俳優としての仕事に大きな糧を与えてくれているのかもしれません。
一人で踊る場面がありますね。あれなども「踊る仕草をする」ではなく、本当に踊っているのです。優雅に楽しそうに。この人は本当に音楽に乗れる、音感、リズム感を持った人だなあと思いました。その感覚が、作品全体の緩急をつかんでいて、本当に気持ちよさそうに戯曲の中を泳いでいて、それにより他の3人も生き生きと彼らの世界を回遊できていたのではないかと思います。
塀の中を経験した3人が、外界との唯一の接点である「映画」に夢を託し、あるいはそれを得て、生への執着を見せるのに対して、娑婆しか知らない若いビリーが閉塞感を抱いて間接的自殺を図るのは何とも皮肉なことです。
ディックは最後までバグに対して「俺はお前を見捨てない」と言いますが、それは「自分を見捨てない」、すなわち「人間を見捨てない」ということでもあるのでしょう。
今後も流山児★事務所の財産演目として、この作品が永く生き続けるよう願っています。清水邦夫の『楽屋』のように、今度はあの4人を誰が演じるのだろうと、観客の興味は尽きないでしょう。