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人間だけがもつ想像力の豊かさを、その翼だけが「世界」を超えられることを教えてくれる。この25年日本のコンテンポラリ・ードラマ(現代演劇)の疲弊が、演劇的知性の崩壊のさまが『血は・・』の舞台を見れば判る。
いかに60年代演劇が「世界」=社会とつながっていたかの証左を見て取ることが出来る。演劇によって世界の再現が可能だったのである。
いま、日本演劇が再生するためには60年代・70年代の現代アングラと呼ばれるテキスト群を「現在の視点」で読み直し上演する試みがもっとも有効であることを今回確信した。
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『少女仮面』で唐十郎さんが『鼠小僧次郎吉』で佐藤信さんが岸田戯曲賞を受賞してから40年以上の歳月が流れた。
戯曲も演劇も運動性・社会性・実験性を喪失し演劇が文字通りの「商品」として垂れ流され「流通」している40年。昨今の売れっ子劇作家?と称するフリーター連中の次々と「商品化」される状況はまさに半径1メートルの己の日常を描く「コンビニ演劇」でしかない。
「すべてが狂っている」という確か鈴木清順監督の映画があったがキチンと正統に権威というヤツとは喧嘩しなきゃ「男」じゃねえだろう!とおれっち言いたいもんである。何でドイツもコイツもなんの躊躇もなく権力という名の商品=カネにころぶんだろうか?ビンボーってそんなに大変かよ。たのしいじゃん。
たぶん「何かが狂っている」のである。
ホームを「レス」にする自由をおれたちはキチンともっている!だから芝居はとこしえに「自由」というものをもてるのだ・・・。
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1960年寺山修司と浅利慶太という「無名」の男2人が日本という「社会」に既成の演劇界に向けて放った憎悪と罵倒の言語のテロリズムは48年の歳月を経ても決して古びていない。いま、そんな根性を持った「若いヤツラ」っているか?ヘラヘラ権威におもねることだらけの羊のような若き演劇人の群れ。
今年は2月寺山に続いて4月三島、5月北村想、8月唐、10月再びの寺山と「大きな物語」との格闘が続く。コッチの根性が問われる。
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とにかく、ペラペラの「表層だらけ」の日本演劇の、それでも必死に「テレビタレントたち」と共に「演劇を商品化」することで生き延び続けているこの演劇白痴状況=商業化からとおくはなれて「アジアからの舞台芸術家たちの逆襲」を組織化するしかない。もう少しだ!「やる気と「世界」を変えたい」ヤツらはアジアにいっぱいいる!
ちょっとした勇気、それさえあればいい。
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以上酩酊舟ノート。
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