公演情報

シアターRAKU 2025
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原作:W・シェイクスピア
台本:山元清多
演出/流山児祥
音楽/高橋牧(時々自動)
振付/北村真実(mami dance space)



 ご予約はこちら

2025/05/05 (月)〜17 (土)

@Space早稲田

 


■予約はお早めに



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==DVD発売中==


こちらから


『冥王星の使者』



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**********

 

 

作⦿高取英
(月蝕歌劇団)

脚本・演出協力⦿天野天街
(少年王者舘)

演出⦿流山児祥

音楽⦿巻上公一
(ヒカシュー)

人形製作⦿山田俊彦
(人形劇団ココン/ITOプロジェクト)
 

 

流山児★事務所
2023年度 新人募集
劇団で活動することに興味がある人を募集します。

【募集人員】
6名 (俳優・スタッフ・制作)
18歳以上35歳未満。
国籍不問。心身ともに健康な男女

【第一次審査:書類選考】
以下を流山児★事務所まで郵送してください。
(1)履歴書(連絡のつく電話番号とメールアドレスを記載のこと)
(2)写真1点(バストアップ)
(3)作文「流山児★事務所に入団してやりたいこと」(400字程度)


【第二次審査:実技・面接】
書類選考通過者のみ、連絡いたします。
※実技審査料3,000円は当日持参のこと。
※スタッフ・制作は面接のみ(無料)です。

【入団後の活動】
流山児★事務所の活動に準じていただきます。
優秀な新人は劇団公演、海外公演などに参加できます。

【お問合せ・応募先】
流山児★事務所 新人募集係
〒162-0045 東京都新宿区馬場下町60番地 まんしょん早稲田307
TEL:03-5272-1785(平日13時〜17時)
E-MAIL:mail@ryuzanji.com

情報詳細
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続々オールド・バンチ〜カルメン戦場に帰る〜 DVD
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【演劇雑誌に掲載された劇評・そのB】
日本劇団協議会9月公演『流れる血、あたたかく』
テアトロ2024年12月号「劇評」

丸田真悟(演劇評論家)
日本劇団協議会新進演劇人育成公演「劇作家部門」
(作/三上陽永、演出/日澤雄介 プロデューサー/流山児祥)

『流れる血、あたたかく』は、秋葉原連続通り魔殺人事件をモチーフに加害者家族の崩壊を描いた舞台だ。
加害者の弟(小川哲也)の視点で両親、親子、兄弟関係が事件までと事件後の様々なエピソードを通して描かれる。
弟にとっても理解できない存在としての兄(山下直哉)だが、それでも家族は事件を引き受けなくてはならない。
三上は事件を越した加害者そのものではなく加害者を生み出した背後に迫る。

家族関係は希薄になる一方で、未だに個人の生き方が家族と強く結びつけられてしまう社会の生きずらさがあり、その狭間に加害者の孤独が浮かび上がってくる。だからこそネット掲示板で知り合った女性の家でその子どもと川の字になって寝るエピソードに別の人生の選択肢があった可能性を見る。

しかし、全体として強い印象を受けるのは加害者の母親の存在だ。
自らの学歴コンプレックスから子どもに対して過度の期待をかけ、しつけと称した虐待を繰り返す母親とそれを黙認する父親。
母親の期待に応えられなくなった時、加害者の心に恐怖が怒りとして深く刻み込まれていく。
事件は「母殺し」と「父の不在」という二重の代償行為として読み解かれる。

ヒステリックな母親を伊藤弘子が見事に形象、特に陰影の濃い声の表情が印象深い。
また、甲津拓平が感情を押し殺した無口な父親を好演して、伊藤との対比が鮮やかだ。

凶悪犯罪がある度、私たちはその加害者の性格や生い立ちだけでなくその家族への関心を煽られるのは、その凶悪さを自らに納得させるための物語を必要としているからであり、そこには弟の「死ぬ理由に勝る、生きる理由がないんです」という悲痛な叫びは届かない。
【演劇雑誌に掲載された劇評・そのA】
流山児★事務所7月公演『叛乱のオペラ〜喜劇阿部定1936』

テアトロ2024年10月号「劇評」
結城雅秀(演劇評論家)
流山児祥の構成演出 佐藤信の『喜劇阿部定』、岸田國士『風俗時評』などを用いて、戦前の時期を描き、それによって現代を彷彿させている。『風俗時評』は2・26事件の1週間前に発表されており、家族や警官が奇妙な流行病(カラダの一部が痛くなる)に冒されるもの。これに絡んで『喜劇阿部定』が上演され、浅草レヴューの場面が展開する。

これらは全てブレヒト風の歌や踊りで連結されており、この有機的な結びつきが不思議な詩と躍動の世界を作り上げている。時にはシャラントン精神病院の患者たちによるマラ=サドの公演のような雰囲気が醸し出されている。

流山児の「前口上」によれば、『喜劇阿部定』の初演は51年前で、当時、劇団黒テントと内ゲバ状態で観に行けなかった、その当時、「斎藤晴彦が演じた街頭写真師の役を今夜は浅倉洋介が演じます」と、観客に伝え劇は始まる。街頭写真師は劇の解説役でもある。

全ては1936年に始まる。この年「東京音頭」と「忘れちゃ嫌よ」が発表され人気を呼んだ。青年将校による2・26事件が起こり阿部定の事件が起こる。同時進行しているのが、浅草レヴューの場面であり、『風俗時評』で医者を演じた栗原茂が浅草レヴューでは春野晴夫という女装の老俳優を演じている。網タイツの3人娘(河原邦恵、伊藤洋子、釘宮由稀)も躍動的だ。そこにいた弁当屋(坂井宏充)は踊り子めめ(竹本優希)と恋仲になる。

一般庶民の家族も登場し、父と母(上田和弘、西村陽子)の間の息子・松竹梅(本間隆斗)には赤紙(召集令状)が来る。そこで、彼はパリに脱出しようとするが、果たせず浦安で浮浪者をやっている。その間、あたし=阿部定(春はるか)が登場し、石田吉蔵を腰紐で絞殺し、陰茎と陰嚢を切断して逮捕されるまで肌身離さず持ち歩いていた状況が展開していく。最後の瞬間にこの包みを託されるのが、松竹梅という筋書きになっている。

1947年になって、阿部定と対談した坂口安吾(菊池健光)が登場し「あれはファシズムの入り口の時期であった、お定さんは平凡な下町育ちの女性で、32歳になって初めて恋をした」とコメント。

現在(昭和99年)の状況が、まるで昭和11年のようなきな臭いものになっていると思わせるような芝居であった。
竹森俊平氏の「長編劇評」〜座席数170のスズナリで起こった奇跡〜
【われわれは世界を、宇宙を、人生を芝居小屋で心から実感できるということの証明】

幕開きから衝撃が走る。出演者全員の荘厳な合唱。恐山を現出させるかのように一人一人マッチを擦りながら寺山の短歌を読み上げていき、寺山の霊を降臨させる。寺山の「自我」を求める旅、自分の真実を求めての時空を超えての旅が主題の芝居に相応しい幕開けだ。

場面は変わる。寺山が「田園に死す」の演出ノートでとくに重要とした生家の壁時計を前にしての情景。作品の再創造を担う天野はこの冒頭のシーンから自分の文体を刻み込む。チャイムが鳴りやまない故障した時計という原作の記述が発展し、ここでは「故障」を言葉の鍵とした悪夢の繰り返しが笑いを呼び起こす。以降、「繰り返し」は劇全体を支配する。

われわれの記憶は完全なものではない。「過去」を憎んで貶めるのであれ、美化するのであれ、何度も繰り返されるパターンの形でしか結局「過去」は記憶には残らないのだ。

シンジの「記憶」に従い展開する物語には、「軍鬼=寺十吾」、「心中願望の嫁=伊藤弘子」、「からくり人形=小林七緒」、「空気人形=新部聖子」といった人物が絶妙な暗転の間を使い、次々現れては消える。その名人芸の連続にわれわれは陶然とする。天野は原作のアイデアをこれでもかこれでもかと膨らます。「サーカス団」、「コバヤシヨシヲと怪人二十面相」、「三人に分裂したシンジ」、いささか悪乗り気味に物語は進み、一体この劇はどこに着地するのかと観客もいぶかるが、心配はいらない。「最後は最初に戻る」という作劇術の王道に熟達している作者は、漁獲の網を大きく、大きく広げて張る。そうすれば網を引き揚げた時に色彩豊かな魚が数多く引っかかる計算だ。

結末に物語を進めるのに天野はさらにいくつもの仕組みを用意する。「三人のシンジを一人にして話を進めろ」という座長(流山児祥)の命令に反し、天野はさらに一人のシンジを登場させる。それが結末への導線だ。

二人目のシンジこそが寺山の「田園に死す」の主題であった現在のシンジ、偽りの記憶をはぎ取ることで過去に自分が本当に何をしていたのかを知ろうとする現在のシンジだ。タイムスリップを可能とする「一般相対性理論」から考えて、過去と現在のシンジが対峙する場面には現実性があり、舞台が浄められるような迫力がある。「三人のシンジ」は「二人のシンジ」の露払いだったのか。

天野の創造力はますます広がる。「田園に死す」を書き、演出した寺山と比べて、われわれには一点追加の知識がある。寺山修司が「1983年5月4日0時5分に死亡した」という事実だ。舞台ではその厳然たる事実が告げられる。そうするとどうなるのか。劇場には三つの視点が同時に存在する。「過去を生きるシンジの視点」「過去のシンジを見つめる現在のシンジの視点」「過去のシンジを見つめる現在のを見つめる観客の視点」である。現在のシンジにも自分がその宙づりの状態、「修羅道」に置かれていることが伝わる。この場面での現在のシンジ:新次(大内厚雄)の悲しげな表情は絶品だ。多くの人物が登場し、激しく動き、笑いが沸き起こる舞台。そうだからこそ人生の孤独が心に沁みとおる。

劇は予定通りに「最初」に戻り終わる。ふたたび全員のコーラス。そのコーラスが今回は声明のように響く。しかしそれは「草木国土悉皆成仏」を唱える涅槃経ではない。ここでは誰も成仏はしない。むしろ死者の魂がわれわれの精神に影響を及ぼす。死者に憑依されるのだ。「繰り返し」の組み立て造られるわれわれの記憶の背後にある「自我の真実」、その探求にわれわれは呼び立てられるのだ。

実は、われわれはその日、劇場に入った瞬間からそこに導かれる運命だった。天野の最後の企み、これこそ至高の企みがここで用意されている。「最後には最初に戻る」という作劇の王道を踏み、天野は「本当の最初」をわれわれに提示する。われわれがこの劇を見るために苦労して登ってきたスズナリ劇場の階段だ。

【寺山修司への現在的アプローチの一つの到達点】
◆演劇評論家:今村修氏の劇評

 10年前の思いは今回も揺るがなかった。昨日はマチネで、流山児★事務所「田園に死す」(原作=寺山修司、脚色・構成・演出=天野天街、音楽=J・A・シーザー、芸術監督=流山児祥)@ザ・スズナリ。

 ご存知寺山映画の代表作を下敷きに、「少年王者舘」を主催するイメージの魔術師・天野が「身毒丸」など他の舞台作品、寺山自身の晩年のスケッチなどもコラージュして大胆に再構成した舞台。2009年に初演され2012年に再演、2014年には「最終公演」と銘打って上演されたが、それから10年、「寺山没後40年記念事業」として蘇った。

 寺山が主宰した演劇実験室◉天井桟敷お得意のマッチを擦ってはすぐに消す魔術的パフォーマンスの中で、登場人物たちが寺山の短歌などを叫ぶ。その姿に映画「田園に死す」の冒頭場面が投影される。怒涛のように乱入してくるシーザーの呪術的音楽。鳥肌が立つようなオープニングだ。続いて、壊れて時報が鳴り止まない柱時計の前で延々と繰り広げられる「故障」問答。微妙に変容しながらエスカレートしていく言葉の繰り返しが世界の輪郭を滲ませ、観客を悪夢のような作品世界に引き込んでいく。気づけば、時計の針は寺山が息を引き取った12時5分で止まっている。
 ここからは一気呵成。母殺し、戦争、青森、東京、汽車、時計、歌謡曲、サーカス、怪人二十面相、少年探偵団、明智小五郎、映画、演劇、短歌、俳句、詩、アジテーション……。ありとあらゆる寺山的意匠、天井桟敷的、少年王者舘的演出を総動員して、記憶とアイデンティティーを巡る迷宮のようなドラマが展開していく。

 歴史は如何様にも改竄できると豪語した寺山の物語らしく、世界は思い出す度に変容し、寺山の分身と思われる登場人物がひたすら増殖していく。マルチアーティスト・寺山の才能の一つ一つが人格を持ったように。

 古い記憶が蘇った。1998年、青森市で上演された寺山作の市街劇「人力飛行機ソロモン」を観に行った時のことだ。入場券がわりの地図と共に、寺山のお面を受け取った。観客はそれを付けて街をうろつくのだが、まともに被ると視界が狭まるので多くの人がそれを顔の横に付けていた。ハプニング的に発生する劇を探して街を歩いていると、何だか多くの人に見つめられている気配がする。その気配は街に溢れる寺山のお面から発せられるものだった。

「寺山修司が増殖する」。それは見ること、覗くことが好きだった寺山に相応しい不思議な感覚だった。だが、それは現実に起きたことなのか。そして自分はその時、本当に青森に居たのか。書き換えられた過去ではないのか。舞台の毒が全身に回ってくる。
 寺山と天野の想像力の真剣勝負とも言える舞台。

原作と原作者へのリスペクトと今を生きる表現者の野心が渾然一体となって渦を巻く。天野が作り出す世界はまるで寺山が乗り移ったかのように、「自分は何者か」「世界とは何か」を問い続け、自らの想像力によって世界を変革することをそそのかす。
 遺伝子の古層を鷲掴みにするようなシーザーの音楽は懐かしく、しかも新しい。その響きと王者舘ダンスの意外な親和性が新鮮だ。寺山の世界を天野の想像力が上書きし、増幅し、補強していく。それでいて舞台で演じられているのは紛れもなく「田園に死す」なのだ。

 そして、恐山の下北と演劇の街シモキタが一瞬にして通底する幕切れ。映画の衝撃的なラストシーンを見事に換骨奪胎したその仕掛けにも改めて舌を巻いた。

寺十吾、木暮拓矢、平野直美、沖田乱、眞藤ヒロシ、流山児祥、里美和彦、五島三四郎、山下直哉、新部聖子、伊藤弘子、さとうこうじ、蒲公仁、竹本優希、小林七緒ら総勢26人が出演。(敬称略)
倉橋祐子 ケント州立大学教授
【寺山修司の復活/再創造】
『田園に死す』は黒澤明の『生きる』に匹敵するかもしれない
March 20, 2024 Leave a comment

 流山児★事務所プロデュース『田園に死す』は、前衛演劇のおおもんであった演出家・作家、監督 寺山修司(1935〜1983)の同名映画 (1974)から着想を得た、ユニークな身体演劇スタイルの追想劇である。
  脚本・演出を天野天街が手がけた本公演は、ポストモダンでパスティーシュ、そしてアルトー的な野心作であり、寺山がいかにノスタルジア、恐怖、不安、性の目覚め、苛立ち、曖昧さをもって自身の青春時代を記憶し、記録しようとしたかを探求する。 この戯曲には、サーカス、合掌、合唱、イヨネスコ、ブレヒト、ヴェデキント、そしてシェイクスピアまで、さまざまな演劇スタイル、演劇技法、またやイズムの「材料」が数多く使われている。

 寺山が読んでいたであろう明智小五郎はもちろん 「マクベス』の3人の魔女、『不思議の国のアリス』、ピランデルロの『作者を探す6人の登場人物』、「シネマパラディソ」そしてイヨネスコの作品を思わせるシーンもある。
 この映画自体、映画の中の映画という形式を使っているが、この戯曲も映画の中の映画/戯曲という形式を使っており(非常に複雑)、記憶の不安定さをと強調している。 言葉と動作の執拗な反復は、話し言葉の正当性に挑戦する。

 寺山は青森県弘前市で育った。寺山修司の幼少期と青年期は、母(寺山が9歳の時、基地にはたらくために移っていった)と父(太平洋戦争で戦死)を違う形で失い、辛く苦しいものであった。 しかしこの芝居は寺山がその背景があったこそいかに多作で創造的なアーティストになったかを物語る。

 スズナリの小さな舞台(芸術監督:流山児祥)は、両側に床から天井ちかくまでのついたてが幾重にも並び、舞台奥には障子戸が。床には畳が敷かれ、伝統的な日本家屋の雰囲気を醸し出している。総勢26人の出演者がステージを満杯にし、集団パワーを強調する。言葉遊び、歌(音楽:J・A  Seazer)、ダンス(振付: 夕沈)そし力強い朗読は、集団的で、魅惑的で、舞台を不穏な限界(リミナル)時間/空間に変貌する。「時間」は、このしばいのなかで、旧い壊れた柱時計に象徴されている。 シルエットの基本とした映像(浜嶋将裕)とパルスライト効果 (小木曾千倉)が劇的シネマトグラフのランドスケープをうみだす。

『田園に死す』は、極めて主観的な記憶のレーン(メモリーレイン)劇であり黒澤明の『生きる』に匹敵するかもしれない。
いま発売中の演劇批評誌「THEATER ARTS」最新2022春号

「劇評家が選ぶ2021ベスト・ステージ」の「ベスト舞台」に
流山児★事務所の天野天街:演出『ヒme呼』流山児祥:演出『帝国月光写真館』
の2作品が選出されています。お近くの書店でご覧ください。

「演劇雑誌」JOINと同様、嬉しい2作品選出です。ありがとうございます。

流山児★事務所の2022第二弾は・シニア劇団
シアターRAKU6月30(木)〜7月3(日)@恵比寿アルファ東京公演 
シェイクスピア:作、流山児祥:演出
『RAKU歌舞伎☆から騒ぎ』です。

恵比寿でお会いしましょう。流山児★事務所は今年も「6本の新作」を連続上演していきます!!
駒場から三鷹市公会堂光のホールへ。
シアターRAKU公演、山元清多没後10+1年メモリアル・あちゃらかオペラ『夏の夜の夢〜嗚呼!大正浪漫編〜』
(原作=W・シェイクスピア、台本=山元清多、演出=流山児祥、振付=北村真実、音楽=多良間通朗)。

シアターRAKUは流山児祥が主宰するシニア劇団。結成24年、平均年齢67歳。
旅する劇団として国内外でシェイクスピア、寺山修司などの作品を歌舞伎風ミュージカルにアレンジして上演してきた。

今回の作品は山元清多がオペラシアターこんにゃく座に書き下ろした作品で、大正デモクラシーの時代を背景にした浅草あちゃらかオペラ風芝居。
公爵の結婚式を3日後に控えた夏の日、妖精たちが棲むという三笠の森を舞台に、相思相愛の恋人たちや職人たちを巻き込んで起こる狂乱の宴。

「継続は力なり」。劇団生え抜きのめぐろあやほか約20人の役者が、舞台狭しと跳ね回り、歌もアクションもダンスも軽やか。
ヒロインの原きよの台詞の粒立ちと言葉の美しさが際立つが、元アナウンサーで朗読ライブも行っている由、むべなるか。
西川みち子は私のご近所さんで、以前憲法ライブでお世話になった。
ゲストの公爵役後藤英樹が舞台をくいくい引っ張る。

皆さん舞台に立つのが楽しくて仕方ないという波動が伝わってくるから、観ている方も楽しくなる。
歌も芝居も格段に上手くなった。
演劇はこうでなくっちゃ。
もちろん流山児さんも羽織袴姿で嬉々として参加。1時間24分。
2021-07-10 12:24 この記事だけ表示
演劇評論家:今村修氏のステキな「劇評」有難うございました。
昨日はマチネで、シアターRAKU「あちゃらかオペラ 夏の夜の夢〜嗚呼!大正浪漫編〜」(原作=W.シェイクスピア、台本=山元清多、演出=流山児祥、振付=北村真実、作曲=多良間通朗)@三鷹市公会堂。

シアターRAKUは、演出家・流山児が主宰する平均年齢67歳のシニア劇団。
1997年に旗揚げして以来、シェイクスピアや寺山修司らの作品を時代劇・音楽劇にアレンジし、海外公演も繰り返してきた。

今回の「夏の夜の夢」は、山元がオペラシアターこんにゃく座に書き下ろしたオペラ台本。
時代を、束の間の自由=デモクラシーの時代といわれる大正に、舞台を金持ちが集う軽井沢に移した、遊び心満載の舞台だ。
結婚を間近に控えた大久保公爵(後藤英樹)と女優・弥生(中尾レイ)の前に銀行頭取の桂木(流山児祥)が進み出た。
娘のちひろ(原きよ)をお気に入りの部下・三郎(杉山智子)と娶せたいのだが、当のちひろは万年大学生の浩三(高野あっこ)と熱々の相思相愛。「自由恋愛」を主張して父の持ちかける縁談に鼻も引っかけない。

一方、ちひろの親友・さつき(川本かず子)は三郎に片思い。だがちひろに夢中の三郎は見向きもしない。
業を煮やしたちひろと浩三は、ある夜「逃避行」と称して「三笠の森」に迷い込む。
それを追う三郎、三郎を追うさつき。
森に棲む妖精コダマの王ヤマト(二階堂まり)は、女王カスガ(めぐろあや)といさかい中だが、不憫なさつきを見かねて、いたずらコダマのガタロ(桐原三枝)に、三郎がさつきに目を向けるよう惚れ薬を使えと命じる。
ところがガタロが使う相手を間違ってしまったからさぁ大変。
歌って踊って恋をして、勘違いとすれ違いの乱痴気騒ぎが森を揺るがしていく。

時代と人物と場所を移した以外、物語はほぼ原作通りだが、想いのほか大正期の軽井沢というのがピタリとはまる。
いささか浮世離れした金持ちたちが繰り広げる、これまた浮世離れした大騒動。

公爵の結婚を祝う劇を稽古しようと森に集まってくる職人たちが、そんなありさまを批判的に見つめる、
としたくもなるところだが、そこは沙翁。そんな賢しらは野暮の骨頂とばかり、こちらもバカ尽くしとしゃれ込んだ。

大正という時代の浮かれ気分と、それに乗っかった上から下までのアチャラカぶりは、その後に来る時代を知っているだけに複雑な想いに駆られる。2013年にリニューアルされたとはいうもののどこか古めかしさが漂う劇場(719席)の雰囲気もフィットしている。


本来、山元清多没後10年のメモリアルとして、小劇場Space早稲田でのロングランを計画していたのがコロナ禍で果たせず今回の3ステージ公演となったのだが、この劇場チョイスは怪我の功名≠ニいったところかも知れない。

舞台で熱演するシニア俳優の決して気を抜かない熱演ぶりも、何やら学芸会や初舞台の必死さを思い出させてくれる。
どことなく懐かしい思いを胸に劇場を後にした。(敬称略)
2021-07-10 12:19 この記事だけ表示

☆とっても素敵な「劇評」です。今村修(演劇評論家)

昨夜は、流山児★事務所「わたし、と戦争」(作・演出=瀬戸山美咲、芸術監督=流山児祥)@ザ・スズナリ。戦争を知らない世代が、どうすれば「戦争」の手触りを実感することができるかを模索した野心作。「戦争」という言葉を単なる普通名詞や歴史の知識から、今生きている日常の場に引きずりおろし触ってしまおうという企みが頼もしい。


日本によく似たどこかの国の今。同じ部隊で、ゲリラの村討伐に戦果を挙げたユリ(林田麻里)、リョウジ(五島三四郎)、マキ(町田マリー)が帰還した。百合は姉夫婦(坂井香奈美・上田和弘)と暮らし、ヒサエ(円城寺あや)から社会順応プログラムのカウンセリングを受けながら、スーパーで働いている。時折訪ねてくる戦友のマキとの語らいが何よりの楽しみだ。リョウジは戦地で負傷して下半身不随となり車いす生活。だが母で政治家のカズコ(伊藤弘子)は、そんな彼を「英雄」として売り出すことを目論み、自由人の父・タカヒロ(若杉宏二)と静かに反目している。そんな両家の戦後≠フ風景がスケッチ風に綴られていく。


毎年250人以上が自殺しているといわれる米国のアフガン・イラク戦争からの帰還兵。国民平均から自殺率が突出しているアフガン・イラク帰りの自衛隊員。戦争は戦場の兵士の心に癒しがたい傷を残す。劇はそんな帰還兵を受け入れた家族の物語として展開していく。家族は彼らにどう接すればいいのか。ある者は腫れ物に触るように過敏になり、ある者はその傷を癒そうとことさらに持ち上げようとする。兵士の心の傷は家族に伝染し、家庭もまた戦場のように壊れていく。戦争は戦場で戦った者たちだけのものでなく、銃後≠フ者たちにも共有され彼らを脅かす。こうして戦争は日常の暮らしの中で、ザラザラとした実感を持ち始め、その手触りは観客にもリアルに拡散する。戦場を描かずに戦争を描く。この仕掛けを発見した瀬戸山の眼力、それを見応えのある劇に仕上げた構成力に脱帽する。俳優陣の演技も熱い。


企みに満ちた物語だけに、細部を紹介するのは愚の骨頂だし、賢しらな解釈は百害あって一利なしだろう。ただし、怖い物語だということだけは伝えたい。力のある劇だ。だが、そうであるだけに、ところどころもっと描き切って欲しかったという注文もつい出てしまう。例えば反戦作家・ケイスケ(里美和彦)やリョウジと不思議な出会いをするチハル(佐原由美)をもっと活躍させられなかったか、例えばリョウジの妹・ミサ(竹本優希)の葛藤の実態は何なのか、それは果たして戦争と絡むのか絡まないのか。説明し過ぎることを嫌う作家であるのだろうとは思いつつ、さらにステキに化ける可能性を大いに感じるだけにいささか勿体なさが残った。

鉄パイプ格子状に組んだ荒々しい装置の所々に家庭的意匠を施した美術(杉山至)が暴力性と日常性の危ういバランスを暗示して刺激的だ。(敬称略)

2018-10-21 23:35 この記事だけ表示   |  コメント 0

とっても素敵な「劇評」です。
BY 山田勝仁(演劇ジャーナリスト)

このような舞台が現代の日本で違和感もなくリアルに迫ってくる時代に恐怖する。もはや越えてはならない時代の転換点を越えてしまったということか。

 瀬戸山美咲が流山児★事務所に書き下ろした「わたし、と戦争」(演出も瀬戸山美咲=ミナモザ)のこと。
 舞台は近未来の日本。憲法は改正され、自衛隊=日本軍にとって「戦争」はごく普通の日常光景となっている。

 今しもアジア某国での戦闘が終息。戦場から兵士が戻ってくる。いわゆる帰還兵。
 女性兵士・ユリ(林田麻里)もその一人。彼女を待ち受けていた日常。スーパー店員としての平穏さになじめないユリ。彼女が唯一心を許せるのは戦場の同僚・マキ(町田マリー)。

 ユリはヒサエ(円城寺あや)が主宰する帰還兵の心をケアするグループカウンセリングを受けている。そんなユリに"反戦作家"の叔父・ケイスケ(里美和彦)から見合い話が持ち込まれる。相手は兵役拒否のために自傷したタクヤ(甲津拓平)。
 ある日、ユリの体験談が掲載された雑誌を読んだリョウジ(五島三四郎)が訪ねてくる。彼は戦場でユリと同じ部隊の上官。脊髄を負傷し、今は車椅子生活。リョウジはゲリラ討伐の功で家族が誇る英雄。しかし…。

 ユリ、マキ、リョウジーー3人の兵士が見た戦場の真実とは…。

 憲法が改正され自衛隊が「国軍」となり、戦争ができる国になるということは、こういうこと。日常の中に戦争が入り込む。大学では兵器の研究が行われ、戦争に反対することは表立って出来ない。
 そしていざ戦争に参加すると、心身に傷を負うのは生身の人間。戦場で人を殺した帰還兵は日常に戻ることができるだろうか。

 憎しみもない、見知らぬ人を殺した人間はいくら戦争だからといって、そのまま日常に戻れるはずがない。イラク帰還兵の自殺率の高さ。
 まさか帰還兵問題が日本の演劇の中でリアルに立ち上がるとは、20年前までなら思いもしなかった。

戦場還りの女性兵士という、これからの日本で起こりうる問題を女性の視点からリアルに、そしてリリカルに描くのは瀬戸山美咲ならでは。
女性の微妙な心理と時代の空気感が投影されている。

リョウジの父役で若杉宏二が久しぶりの出演。
ほかのキャストは以下の通り。
 坂井香奈美(ユリの姉)、小林あや(ユリの叔母)、上田和弘(サトミの夫)、伊藤弘子(リョウジの母)、竹本優希(リョウジの妹・高校生)、佐原由美(チハル=リョウジが思いを寄せる女子大生)、荒木理恵(ワカコ=ルポライター)。
1時間55分。

2018-10-21 11:20 この記事だけ表示   |  コメント 0