☆とっても素敵な「劇評」です。今村修(演劇評論家)
昨夜は、流山児★事務所「わたし、と戦争」(作・演出=瀬戸山美咲、芸術監督=流山児祥)@ザ・スズナリ。戦争を知らない世代が、どうすれば「戦争」の手触りを実感することができるかを模索した野心作。「戦争」という言葉を単なる普通名詞や歴史の知識から、今生きている日常の場に引きずりおろし触ってしまおうという企みが頼もしい。
日本によく似たどこかの国の今。同じ部隊で、ゲリラの村討伐に戦果を挙げたユリ(林田麻里)、リョウジ(五島三四郎)、マキ(町田マリー)が帰還した。百合は姉夫婦(坂井香奈美・上田和弘)と暮らし、ヒサエ(円城寺あや)から社会順応プログラムのカウンセリングを受けながら、スーパーで働いている。時折訪ねてくる戦友のマキとの語らいが何よりの楽しみだ。リョウジは戦地で負傷して下半身不随となり車いす生活。だが母で政治家のカズコ(伊藤弘子)は、そんな彼を「英雄」として売り出すことを目論み、自由人の父・タカヒロ(若杉宏二)と静かに反目している。そんな両家の戦後≠フ風景がスケッチ風に綴られていく。
毎年250人以上が自殺しているといわれる米国のアフガン・イラク戦争からの帰還兵。国民平均から自殺率が突出しているアフガン・イラク帰りの自衛隊員。戦争は戦場の兵士の心に癒しがたい傷を残す。劇はそんな帰還兵を受け入れた家族の物語として展開していく。家族は彼らにどう接すればいいのか。ある者は腫れ物に触るように過敏になり、ある者はその傷を癒そうとことさらに持ち上げようとする。兵士の心の傷は家族に伝染し、家庭もまた戦場のように壊れていく。戦争は戦場で戦った者たちだけのものでなく、銃後≠フ者たちにも共有され彼らを脅かす。こうして戦争は日常の暮らしの中で、ザラザラとした実感を持ち始め、その手触りは観客にもリアルに拡散する。戦場を描かずに戦争を描く。この仕掛けを発見した瀬戸山の眼力、それを見応えのある劇に仕上げた構成力に脱帽する。俳優陣の演技も熱い。
企みに満ちた物語だけに、細部を紹介するのは愚の骨頂だし、賢しらな解釈は百害あって一利なしだろう。ただし、怖い物語だということだけは伝えたい。力のある劇だ。だが、そうであるだけに、ところどころもっと描き切って欲しかったという注文もつい出てしまう。例えば反戦作家・ケイスケ(里美和彦)やリョウジと不思議な出会いをするチハル(佐原由美)をもっと活躍させられなかったか、例えばリョウジの妹・ミサ(竹本優希)の葛藤の実態は何なのか、それは果たして戦争と絡むのか絡まないのか。説明し過ぎることを嫌う作家であるのだろうとは思いつつ、さらにステキに化ける可能性を大いに感じるだけにいささか勿体なさが残った。
鉄パイプ格子状に組んだ荒々しい装置の所々に家庭的意匠を施した美術(杉山至)が暴力性と日常性の危ういバランスを暗示して刺激的だ。(敬称略)
とっても素敵な「劇評」です。
BY 山田勝仁(演劇ジャーナリスト)
このような舞台が現代の日本で違和感もなくリアルに迫ってくる時代に恐怖する。もはや越えてはならない時代の転換点を越えてしまったということか。
瀬戸山美咲が流山児★事務所に書き下ろした「わたし、と戦争」(演出も瀬戸山美咲=ミナモザ)のこと。
舞台は近未来の日本。憲法は改正され、自衛隊=日本軍にとって「戦争」はごく普通の日常光景となっている。
今しもアジア某国での戦闘が終息。戦場から兵士が戻ってくる。いわゆる帰還兵。
女性兵士・ユリ(林田麻里)もその一人。彼女を待ち受けていた日常。スーパー店員としての平穏さになじめないユリ。彼女が唯一心を許せるのは戦場の同僚・マキ(町田マリー)。
ユリはヒサエ(円城寺あや)が主宰する帰還兵の心をケアするグループカウンセリングを受けている。そんなユリに"反戦作家"の叔父・ケイスケ(里美和彦)から見合い話が持ち込まれる。相手は兵役拒否のために自傷したタクヤ(甲津拓平)。
ある日、ユリの体験談が掲載された雑誌を読んだリョウジ(五島三四郎)が訪ねてくる。彼は戦場でユリと同じ部隊の上官。脊髄を負傷し、今は車椅子生活。リョウジはゲリラ討伐の功で家族が誇る英雄。しかし…。
ユリ、マキ、リョウジーー3人の兵士が見た戦場の真実とは…。
憲法が改正され自衛隊が「国軍」となり、戦争ができる国になるということは、こういうこと。日常の中に戦争が入り込む。大学では兵器の研究が行われ、戦争に反対することは表立って出来ない。
そしていざ戦争に参加すると、心身に傷を負うのは生身の人間。戦場で人を殺した帰還兵は日常に戻ることができるだろうか。
憎しみもない、見知らぬ人を殺した人間はいくら戦争だからといって、そのまま日常に戻れるはずがない。イラク帰還兵の自殺率の高さ。
まさか帰還兵問題が日本の演劇の中でリアルに立ち上がるとは、20年前までなら思いもしなかった。
戦場還りの女性兵士という、これからの日本で起こりうる問題を女性の視点からリアルに、そしてリリカルに描くのは瀬戸山美咲ならでは。
女性の微妙な心理と時代の空気感が投影されている。
リョウジの父役で若杉宏二が久しぶりの出演。
ほかのキャストは以下の通り。
坂井香奈美(ユリの姉)、小林あや(ユリの叔母)、上田和弘(サトミの夫)、伊藤弘子(リョウジの母)、竹本優希(リョウジの妹・高校生)、佐原由美(チハル=リョウジが思いを寄せる女子大生)、荒木理恵(ワカコ=ルポライター)。
1時間55分。
★★作:パク・グニョン、翻訳:石川樹里、上演台本・演出:シライケイタ(温泉ドラゴン)、芸術監督:流山児祥、流山児★事務所、ザ・スズナリ
”流山児★事務所が「代代孫孫2016」に続いて放つパグ・グニョンの作品第二弾。
満州という新天地で五族協和を信じ、日本人として生きた朝鮮の人々に迫る、強烈な火花を散らした若者たちの人生とは・・”
スズナリの中央に四角の舞台をつくり、客はそれを両側から見下ろスタイルの芝居だ。主演は、伊藤弘子、清水直子(俳優座)、、みんふぁあ(洪明花)、いわいのふ健(温泉ドラゴン)、カゴシマジロー(TRASHMASTERS)、小暮拓矢の6人。
上演台本を書いたシライは”僕の言葉に置き換えた部分はあるが、脚本の根幹は全く変えていない。「日本人になることを夢見て満州に渡たった朝鮮人」を「日本人が演じる」こと自体が最大な仕掛けだと、思うに至ったからだ。六人の俳優達と共に、この仕掛けに絡めとられそうになりながら、自分を問い直し、他者をと直し、血脈を遠い直し、演劇を問い直した一カ月だった。
”現在、もっともノリにノッテいいるシライケイタの才気と勢いにのみこまれた1時間40分だった。
「凡そ君と」句:”二日はや豆腐屋に鳴る黒電話”、”獅子舞の海を見ている舳先かな”
撮影:横田敦史

BY 山田勝仁(演劇ジャーナリスト)
昨日は下北沢ザ・スズナリで流山児★事務所「満州戦線」
(作=パク・グニョン、翻訳=石川樹里、上演台本・演出=シライケイタ、芸術監督=流山児祥)。
今、絶好調のシライケイタの安定した演出力と実力ある俳優陣のコラボで間然する所のない舞台だが、見終えてどうにもモヤモヤ感が残る舞台でもある。
舞台は1943年3月、満州の首都・新京。
朝鮮から満州に渡り、実質的な大日本帝国陸軍士官学校といえる満州国陸軍軍官学校を優秀な成績で卒業し、関東軍の将校という朝鮮人として最高の栄誉が待つ飛鳥(カゴシマジロー=TRASHMASTERS)を祝うために、朝鮮人の友人たちが集う。
クリスチャンであり、満州で熱心な布教活動を行おうとする尚美(清水直子)とシュバイツァーに心酔する恋人の木村(いわいのふ健)、そして飛鳥の幼馴染で市役所勤務の芳江(みょんふぁ)。彼らは比較的富裕層の出身で地位もある。満州で働きながら、みな日本名を持ち、その名前で呼び合っている。
彼らは祖国独立のために戦う抗日ゲリラを匪賊と呼び、憎悪する。
そこに、祖国の母の手紙を携えて飛鳥の妹・慶子(伊藤弘子)が訪ねてくる。
歓迎する飛鳥だが、妹が持ってきた朝鮮の伝統的味噌壺は匂いがきつく非衛生的だと拒否する。そして日本の有田焼こそが伝統美なのだと賛美する。有田焼が豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に半島から連れられてきた陶工が作ったということには思いが至らないのか。
日本人以上に日本人になろうともがく飛鳥。そして芳江。
芳江は日本人上司との不倫が発覚し、上司の妻に罵倒され、上司に捨てられてもなお「立派な日本人の子」を生もうとうする。
物語の語り部はその赤ん坊の子。つまり、芳江の孫・金田(木暮拓矢)。
満州という「王道楽土」を信じ、「五族協和」を信じ、日本人になろうとした朝鮮の人々の苦悩。
「朝鮮人は意思が弱く、怠け者。自分たちの運命を自分のチカラで切り拓いていく事が出来ない」
「いつも誰かに命令されてはじめていやいや動くという悪い習性を持つ奴隷根性が血に流れている」といった自虐的なセリフが飛び交い、その度に背筋がひやりとする。
作者は朝鮮人作家であり、それを演じるのが日本人と在日三世というアイロニカルな舞台。
韓国での初演は賛否両論というより非難轟々だったとか。
それはそうだ。登場人物はひたすら日本人と日本文化を賛美し、同化しようとする「富裕親日派」だ。飛鳥のモデルとされるのは元大統領・朴正煕(パク・チョンヒ)であり、後に次女の朴槿恵(パク・クネ)は18代大統領になる。韓国国民にとっては軍事クーデターで長期にわたる独裁政権を築いた民主化闘争の弾圧者であり、娘もまたセウォル号沈没事故などの不祥事で罷免された無能な卑劣漢なのだ。
言ってみれば、アメリカにひたすら媚びを売り、戦後日本をアメリカの属国にした岸信介を孫の安倍晋三の視点で語っているようなものだ。韓国国民にとって居心地がいいわけがない。
劇中で飛鳥は帝国陸軍で次々と軍功を挙げ、日本敗戦後は韓国で反共活動に血道を挙げ大出世する。
芳江もまた日本人上司が忘れられず、京都を彷徨う。
芝居を客観視する演出を最後に持って来ざるを得ないのは台本のオリジナル性を尊重したのだろう。これは人間喜劇として見るべきなのか。劇中の聖劇がデタラメな「カモメ」という皮肉な笑いがその象徴か。
「日本人になりたい」「日本文化はすばらしい」ーー観る人によっては昨今の来訪外国人の日本礼賛の風潮と混同、勘違いされかねない危うさがある。
皮肉といえば、冒頭での民族自虐「主体性のなさ」などはそっくりそのまま日本人に当てはまる。
創氏改名を強要されなくても自ら進んで欧米人風の名前を付け、先祖が培って来た食べ物を嫌い、これまた欧米料理に舌鼓を打つ。ハロウィンなど欧米の祭や習俗には熱狂するが、日本古来の祭には関心を持たない。
劇中の朝鮮人の特性と同じ。
その意味で、この芝居は日本と日本人を照射した舞台だと言ってもいい。
すっかりコメディリリーフぶりが定着した伊藤弘子の洒脱な芝居、聖劇の場面の軽みのある芝居で新境地開拓の清水直子、難易度の高い役に挑んで成果をあげたみょんふぁ、その誠実な演技が語り部にふさわしい木暮拓矢、端正ながら軽妙な芝居で独自の存在感を持ついわいのふ健。そして舞台の要であり、この芝居のために頭を剃ったというカゴシマジローが飛鳥の抱える複雑な内面をよく演じていた。
16日まで。
私を「俳優ベスト」に「選出」してくれている貴重な評論家も・・・・・がんばります。
でもって、これまた発売中の演劇雑誌「テアトロ」3月号の「劇評家21氏による2016舞台ベストワン・ワーストワン」にも8人の劇評家が「OKINAWA1972」「代代孫孫2016」を高く評価している。流山児★事務所の2016年の2本の本公演は多くの人々の記憶に残る作品となったのである。
流山児★事務所は3作の「新作音楽劇」で、2017年も一気に駆け抜けます。
3月『だいこん・珍奇なゴドー』@スズナリ
5月『すももももももモモのうち』@座高円寺2
2018年1月『オケハザマでええじゃないか』@スズナリ
【最新前売状況】 15(木)現在。
15(水)夜「前売完売」
16(木)夜「前売完売」
17(金)夜「残席僅少」 ※今すぐ予約
18(土)昼「残席僅少」 ※今すぐ予約
18(土)夜「余裕アリ」 ※今すぐ予約
20(日)昼「残席僅少」 ※今すぐ予約
21(月)昼「超大いに余裕アリ」※おすすめ
21(月)夜「余裕アリ」※おすすめ
22(火)昼「超大いに余裕アリ」※おすすめ
上演時間1時間40分 開演1時間前スズナリ窓口で当日券発売!
※予約受付はコチラで開演3時間前まで受け付けています。
今すぐ予約→https://www.quartet-online.net/ticket/daidai?m=0abjgca … …
当日券アリ→03・5272・1785
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直木賞作家:佐々木譲さんの「劇評」
韓国で上演すればこの作品はストレートな「一族の歴史」ものだけれど、シライケイタはこの原作の設定を逆転させ、台詞を完全に日本人のものに置き換えてしまった。すると、この舞台上の日本はかつて韓国の植民地であり、独立したけれども南北に分断され、ベトナム戦争にも参加した歴史を持つ、という国になる。ある種のパラレル・ワールドものという言い方もできるかもしれない。
ところが観ているうちに、この作品はパラレル・ワールドものというよりは、アクチュアルな近未来もののように見えてくる。韓国の近・現代史が、いま予想しうる日本の明日そのものではないかと思えてくるのだ。たとえばアメリカ軍後方支援で外国に派遣され精神を病んだ帰還兵の姿は、いまやけっして他人事ではない。
シライケイタ演出により、おそらくは原作者の意図を超えてヘビーな問いかけを持つことになった舞台。
BY CORICH舞台芸術より タケミン
これは今われわれに問われている問題の縮図のようにも思えた。
骨太のドラマがとても見ごたえがあった。
特に、男たちのぶつかり合いを演じた役者陣の熱量が圧巻だった。
原子力発電所内の奥底の現場で予期せぬ大地震が発生して命運を共にせざるを得ない窮地に追い込まれた男たち。
統率力のあるリーダーを選んで身を委ねるべきか、それとも皆んなで知恵を絞って合議制で行動すべきか?しかしそれに重なるように、権力側の人間とそれを暴こうとする人間の対立の構図も次第に明らかになってくる。
そんな対立も、生死の極限状態に近づくにつれ、心の奥底にある純粋な感情にかき消され、新たに生まれた連帯感によって全員を一つの行動へと突き動かしていった。
BY CORICH舞台芸術より なしか
暗闇、静寂、光、衝撃。様々な立場の作業員の衝突と怒号。極限状態な中の正論の虚しさ。選択の迷いと激しい議論の展開が起こるのに水音だけはよく響く。現実でも嘘みたいな事が起きようとしているがあれが理性の感覚だったのかも。
これまで見た日澤さんの演出の中ではかなり派手なアングラ演出というような感じで面白かった。これをまた鐘下さんがやると違うんだろうな。
久しぶりに言いたいことを言ってる「老舗」演劇を見たっ!って印象。
あ、流山児事務所30周年記念公演の中の一作で、鐘下作、日澤演出のためか、前説で流山児さんの「イッツ、ショーターイム!」が聞かれなかったのは残念。
鐘下さん、密閉空間の展開がお好きなのね。