「ラッキー☆アイランド」(2014年)、「あれからのラッキー☆アイランド」(2015年)、「幻影城の女たち」(2016年)の3部作は「フクシマの現在」を描く「フクシマ産出荷」として、1500人を超える観客に衝撃を与えた作品としてこれからも長く語られ続けることだろう。
シゲさんが書いている。
「「怒りのミュージカル」「演劇テロル」「演劇ホロコースト」「311後のアングラ」「ルサンチマンの演劇」「アナーキストのミュージカル」などなど物騒に褒めてくださる方々がいるのもオモシロい。」
近いうちに「あれからのラッキー☆アイランド」「幻影城の女たち」2部作を、アジアに、世界に、持っていこうと思っている。
「世界地図からフクシマ消失!」(あれからのラッキー☆アイランド)「フクシマが世界漂流!」(幻影城の女たち) の2部作でタイトルはズバリ「FUKUSHIMA AFTER THE FACT!」である。
3・11を、原発事故を決して風化させないフクシマの演劇人たちの怒りを「世界」に!です。誰も観たことのないパンクで過激なミュージカルをこれからも佐藤茂紀と一緒に創っていきます。
『OKINAWA1972』上演中、Space早稲田で「35年ぶり」にであった長女の麻央が孫の紗耶香を連れて3回目の早稲田に来てくれた。メチャクチャ、紗耶香には「お芝居」が面白かったみたい。「カメさん、カメさん」と山下直哉をよんでました。麻央との4回目のデート、焼肉屋でランチ。麻央は『メカニズム作戦』のポスターを知り合いの店に張ってくれる。ありがとう。
バラシて、18時過ぎ打ち上げ。夜20時過ぎ、セットのフクシマをトラックに積みシゲサン達は郡山へ帰って行った。3・11以降5年8か月、流山児★事務所とユニットラビッツの友情は続いている。これからもずーっと続くことだろう。ぜひ、ユニットラビッツを末永くご贔屓のほどお願いします。
Space早稲田演劇フェスティバルも残すこと3演目。けさらんぱさらん商会、AMMO、大人のためのワークショップ&発表公演と続きます。ぜひ、ふらりと早稲田までおいで下さい。
私は今週末は山形で「演劇大学IN山形」でアングラ戯曲「朗読」ワークショップ。でもって、岸田國士と寺山修司をテキストにしたワークショップ台本を仕上げねばならない。グワンバリます。
劇団ユニット・ラビッツ『幻影城の女たち ー胡蝶ノ夢編ー』のゲネプロを観せてもらう。
初日、なんと劇中とアフタートークに乱入するため。アフタートークはともかく、なぜ劇中への乱入など引き受けてしまったのか。ゲネプロを観ている間中、自分の軽薄さを後悔する。芝居を壊さなきゃいいけど。
作・共同演出の佐藤茂紀さんは福島県郡山市の高校の先生。前作『あれからのラッキー☆アイランド』は、壁で囲まれ、地図からも消され、陸の孤島となった福島に残された人々の破天荒な闘いの話だったが、今回は福島で演劇をやっているフツーの女子高生の話。しかし、これまたイメージがあちこち乱れ飛び、破天荒不謹慎極まりない。福島で生まれ、福島で育ち、福島で暮らす人だけに許される福島の描き方。
佐藤さんはそれを十二分に武器にして、この国を撃つ。
クライマックス、福島と沖縄が出会う予感には思わず涙が零れました。
観てきました!スペース早稲田で劇団ユニットラビッツ。
前回6月のフクシマを思うにゲストで来てくださった劇作家佐藤茂紀率いる郡山の劇団である。震災後の福島の不条理を演劇の力で描き続けている。フクシマを思うでは前回作「あれからのラッキー☆アイランド」をドラマリーディングでやらせてもらった。
…そうきたか!
そうきたか、シゲさん。
福島がこの5年抱えてきた問題を女子高生達が軽やかに妖しく馬鹿馬鹿しい破壊力で語っていく。ありのままをそのまま書いたという。シゲさんからこれまでに聞いた話が頭の中で駆け巡る。福島の女優鈴木紀子がまさに自分事として身も心も削りながらこの芝居に向き合ったのが伝わる。東京の役者のパワー、若い子達の不思議なリアリティ。一人一人が生き生きとしていて、溢れる言葉は、東京五輪と豊洲新市場とトランプによって霞の向こうに追いやられた、厳然としてそこにある福島の不条理を私たちに気づかせる。さすが!流山児さんの演出によるテンポのいい馬鹿馬鹿しさが、心地よいジャブとなって体に響く。
ラストシーン。
そう来たか!シゲさん。
あっぱれだ。そうあるべきだ。
役者達に拍手。
シゲさん、流山児さんに敬意を込めて。
この芝居、東京より西でも上演して欲しいなぁ。
一昨日はSpace早稲田で福島の劇団ユニット・ラビッツ「幻影城の女たち〜胡蝶の夢編」(作・演出=佐藤茂紀、監修・演出=流山児祥)
「ラッキー☆アイランド」(2014年)、「あれからのラッキー☆アイランド」(2015年)に続く福島発の「フクシマ」を描く作品3作目。
タイトルの「幻影城」は江戸川乱歩の探偵小説評論集で、乱歩が戦時中に福島に疎開していたことからつけられた。
物語にも乱歩の世界が登場する。
サブタイトルの「胡蝶の夢」は、中国戦国時代の思想家・荘周が蝶になった夢をみたが、自分が夢の中で蝶になったのか、それとも夢の中で蝶が自分になったのか、自分と蝶との見定めがつかなくなったという故事によるもの。
311から5年8カ月。いまだに仮設住宅暮らしを余儀なくされている被災者が岩手・宮城・福島の3県で9万人もいる。それなのに何が五輪だ、何が復興だ、何が帰還だという怨嗟の声があるのは当然のこと。
胡蝶の夢のように、311が夢であり、今の生活は311前の自分が見ている夢に過ぎないという儚い願いが込められているとしたらその哀しみの行方はどこに向かうか。舞台に込められた被災者の複雑な恨み=ルサンチマン。
開幕前に、「ただちに人体に影響のない飴」を客席に配る女子高生たち。ここは小劇場SPACE福島のこけら落とし。福島県をかたどった巨大なオブジェの前に立つ演劇部顧問の芽衣子先生(鈴木紀子)と、震災時の教え子で今は教師となった波美子(佐原由美)。
「シーベルトとかベクレルとか私たちだって当時初めて聞いた言葉でしたし、でもその数字自体に閾値がないっていうか…。閾値って何かわかりますか?」
と客席に向かって苛立たし気に話しかける芽衣子。
彼女たちが今稽古中なのは「怪人二十面相vsジャパン」なる乱歩のパロディ劇。
出演するのは霧子(竹本優希)、双葉子(松岡沙也華)、凜子(鹿又由菜)。そして変態3人組、タケ子(山下直哉)、ウメ子(遠藤聖汰)、マツ子(成田浬)。
タケ子が扮するカメは怪人二十面相が化けたもの。
前々作ではゴジラが登場したが、では今回は…。
奇想の物語は予想もつかない方向に転がっていく。あまりにも荒唐無稽なこの結末を誰が予想しえただろう。
中盤の芽衣子のセリフが胸を打つ。
「もう一度原発事故が起こるとしたら、福島で起きた方がいい。だって、福島の人は経験してるし、勉強もしてるし。初めてだったらこんな辛い思いをするのは耐えられないから。でも一回経験した私たちは耐える。だけど、こんなに早く忘れ去られるなら、『ガメラ行け。東京に。首都に。日本の心臓に。全部ぶち壊して、思い知らせて来い。私たちが味わった苦しみを』って…」
このセリフで涙腺が決壊してしまった。
自分の故郷で建設中の大間原発。計画は80年代から。それを知った時から、常に思ってきた。「もし事故が起こったら自分は故郷を失う」と。その不安を福島が引き受けてしまったという申し訳ない気持ち、後ろめたさが常にある。心のどこかで「原発事故が一度日本のどこかで起こればこの先すべての計画はなくなるだろう」という悪魔的な気持ちがあった。
それが福島で起こってしまったことへの罪悪感がある。
しかし、それでも原発は止まらないどころか、さらに再稼働が進んで行く。なんていう国なのだ。
だから、「最終兵器」ともいうべき、ラストの「反撃」はいくら荒唐無稽であろうとも演劇的リアリティ―を持つ。
現実社会のリアリティ―と演劇的リアリティ―は違う。
自虐被虐ひっくるめて、胡蝶の夢の結末はこれでいいのだ。
今回、出演者が全員、見事なアンサンブル。芽衣子役の鈴木紀子は現実と虚構のあわいを芝居の中だけでなく現実でも往還している。リアルなセリフはフクシマの彼女ならでは。
佐原由美も声を潰しながら、ラブリーな波美子先生を好演。
成田カイリの女子高生怪演は破壊的。
原発問題を描く舞台でこんなに笑うことができたのは初めて。
現実があまりもにバカバカしく、もはや我々は「哄笑」するしかないから。
劇団ユニット・ラビッツの『幻影城の女たち-胡蝶ノ夢編-』スペース早稲田 作・演出 佐藤茂紀 監修・演出 流山児祥を観劇。
アナグラへと通じるような仄暗い階段を下りると、いきなり迎え入れられたのは客入れと思われる4〜5人の案内係。劇場内ほぼ中央の桟敷席に腰を降ろし、公演チラシに目を通していると「健康に害のない飴はいかがですか?」と、すっと女子高生風の案内係が近寄ってきて声をかけられた。これは糸引き飴ではないか!水色、紫、赤と色とりどりのなかから赤色の糸つき飴をひとつつまみ上げ、気恥ずかしさと懐かしさに拮抗しながら、すぐ口のなかに放り込む。昭和の香り立つ、着色料塗れの甘味が口一杯に広がっていく。
ということは、今から糸引き飴を舐めながら観劇することになるのか?! それにしても、おっさんが口から糸を垂らしている、この姿、今、劇場に入ってきたばかりの客には可笑しな光景に映るんだろう。
少しずつ飴が小さくなり、仕舞いには溶けて糸だけになってしまった。残った糸をどう始末していいものか。もっていたボールペンに巻き付けようと試みるも暗さと焦りから思うように巻けない。それでもなんとか巻きつけることに成功した途端、それまで糸引き飴を配っていた案内係が突然、客席に向かって喋り出していた。
「本日はご来場ありがとうございます」
「スペース福島、本日こけら落としでございます」
「それにしてもスペース早稲田そっくり」
「ですよねえ」
演劇はこの世の写し鏡であるという。
世は思いによって変えられるのか?!
じゃ、おまえはどうか? 何を変え、どう生きていこうとしているのか?
感じているかい?
生きているかい?
眠っている心の襞に揺さぶりをかけてくる。
演目『幻影城の女たち-胡蝶ノ夢編-』の”胡蝶の夢”とは、中国の思想家荘子の説く「斉物論」の”胡蝶の夢”からとったものかと思われる。
ある夜、荘子は自分が蝶になった夢をみた。目を覚ますと、果たして自分が夢のなかで蝶に変身したのか、いま蝶が夢のなかで自分になっているのか、どちらかわからなくなったという話。
一体、この世は?現実か?いや夢の話か?
うつつか、まことか、それとも幻影か?
いや、どうともいえない世界のことか?
腹底からふつふつと立ち上ってくる痺れのような熱さを感じた90分間だった。
いや、この熱さこそが絶対的にリアルな世界なのだ! と…
現実か、夢か、入れ子構造の劇中劇か、過去と未来とが垣間見れるとされる、合わせ鏡のように、位相の異なるシーンが冒頭からラストまで客を煙に巻くように、まこと、うつつ、幻影が紡がれていく音楽劇。
虚構と現実を行き来しながら思いと思いが交錯し、肉と肉がぶつかり合いながら、時には破廉恥に時にはシリアスに、性格のまったく異なる登場人物芽衣子(鈴木紀子)と波美子(佐原由美) をメインに描かれていく。明智小五郎役の佇まいと凛々しい声が印象的な鈴木紀子、怒りに燃える波美子役からキュートな小林少女役へ、それぞれの役の魅力をうまく演じきっていた佐原由美も心に残る。
あるシーンではまことか、うつつか、どちらともつかない世界で芽衣子と波美子が3,11後の福島の現状を悲哀をもって語りあい、あるシーンでは高校の文化祭で上演される芝居の劇中劇シーンさながら、アクション満載のエンターテイメント風に演じられていく。次第にどれが現実で、どれが劇なのか判然としなくなってくる。そんな中、クライマックスへ。
どのシーンもほとんど動き回っている役者陣たちの奮闘ぶりも楽しめるが、それに負けず劣らず、作者の思いのつまった直球勝負のセリフが胸に突き刺さってくる。
アフタートークで一人のゲストが話題に挙げていたが、劇中にゲストが登場してくるシーンがあった。おそらく虚構な劇空間にリアルなゲストを登場させ、二項対立的世界をかき混ぜようとした意図であったと推察できるが、個人的には劇(芝居)への集中が途切れ、却って役者の気持ちを慮ってしまい、すぐにトークに集中できなかった。が、こういった浮遊した意識も、すべては虚構だと解釈すれば、楽しめるのだろう。
只、演出と思いのつまったセリフの熱量とのアンバランスさが気になってしまったが、この微妙なアンバランスをどう昇華していけるか、客の力量が問われるのか?!
しかしながら、なんでもありなエンターテイメントな劇空間は、見るものを飽きさせない。
劇中に通低しているのは、夢と現実、幻影と現実、性(一部女装、同性愛が描かれる)や境界の問題にしろ、二項対立的価値観の向こう側を描いている。どちらともいえない世界の提示だ。それが虚構の演劇を通し、果たしてラストにどういったメッセージを投げつけてくるのか?
波美子「芽衣子先生、報告があるんです。私、教員採用試験受かりました。来年の春から」
芽衣子「波美子。それは夢の話でしょ」
波美子「先生・・・気づいてる・・・・」
敢えて直接には提示せず、われわれに爆弾を投げつけてくるラストに作者の思いが込められているように感じられた。
劇後、帰途につきながら、ある思いに引っ張れていく。
最近、読了した安藤礼二氏の評論。
鈴木大拙の語る「空」の思想やエックハルトとスウェーデンボルグの語る、「体験」の思想について語っていた。いかに現実に空の思想を体現できるのか?いやひょっとしたら、演劇にもそのような二項対立的価値観の向こうの世界が描けるのではないか?鈴木大拙は「経験」から「純粋経験」へ、そして、”心”に行き着くことになる。自らのなかに映りこんだ、自らの心を見つめている”心自体”だ。今風にいえば、”あるがまま”となるのか。劇中のセリフにも「演劇は自分事なんだって」で語られていたような気がする。
作者は、そういった”あるがまま”の自らの心自体を描きたかったのではないのか? そう思えば思うほど、作者のリアルな焦燥や怒りがストレートに心に突き刺さってくる。
そう思いながらメモ帳とボールペンを取り出し、今の思いをしたためようとした。その時だ。得たいの知れない欠落感に襲われた。「ない!」「糸がない!」ボールペンに巻きつけていたはずの糸が消えている。どこかに落としたのか? いやそんなはずは。。。と、バックのなかをまさぐるも見つからない。確かに上演前にボールペンに糸を巻きつけた、スペース早稲田の客席で。それが消えている。うつつか、まことか、それとも幻影か?そう思えば思うほど、良い夢を見終えたあとの目覚めのような、すがすがしい思いに全身が満たされていく。駅の改札を抜け、ステーションビル前に数台の消防車が停まっていた。近くの居酒屋でボヤがあったらしい。周囲の建物の壁に点滅している赤色灯の光だけがやけに眩しく映っていた。(敬称略)
劇団ユニット・ラビッツの『幻影城の女たち-胡蝶ノ夢編-』スペース早稲田 作・演出 佐藤茂紀 監修・演出 流山児祥を観劇。
アナグラへと通じるような仄暗い階段を下りると、いきなり迎え入れられたのは客入れと思われる4〜5人の案内係。劇場内ほぼ中央の桟敷席に腰を降ろし、公演チラシに目を通していると「健康に害のない飴はいかがですか?」と、すっと女子高生風の案内係が近寄ってきて声をかけられた。これは糸引き飴ではないか!水色、紫、赤と色とりどりのなかから赤色の糸つき飴をひとつつまみ上げ、気恥ずかしさと懐かしさに拮抗しながら、すぐ口のなかに放り込む。昭和の香り立つ、着色料塗れの甘味が口一杯に広がっていく。
ということは、今から糸引き飴を舐めながら観劇することになるのか?! それにしても、おっさんが口から糸を垂らしている、この姿、今、劇場に入ってきたばかりの客には可笑しな光景に映るんだろう。
少しずつ飴が小さくなり、仕舞いには溶けて糸だけになってしまった。残った糸をどう始末していいものか。もっていたボールペンに巻き付けようと試みるも暗さと焦りから思うように巻けない。それでもなんとか巻きつけることに成功した途端、それまで糸引き飴を配っていた案内係が突然、客席に向かって喋り出していた。
「本日はご来場ありがとうございます」
「スペース福島、本日こけら落としでございます」
「それにしてもスペース早稲田そっくり」
「ですよねえ」
演劇はこの世の写し鏡であるという。
世は思いによって変えられるのか?!
じゃ、おまえはどうか? 何を変え、どう生きていこうとしているのか?
感じているかい?
生きているかい?
眠っている心の襞に揺さぶりをかけてくる。
演目『幻影城の女たち-胡蝶ノ夢編-』の”胡蝶の夢”とは、中国の思想家荘子の説く「斉物論」の”胡蝶の夢”からとったものかと思われる。
ある夜、荘子は自分が蝶になった夢をみた。目を覚ますと、果たして自分が夢のなかで蝶に変身したのか、いま蝶が夢のなかで自分になっているのか、どちらかわからなくなったという話。
一体、この世は?現実か?いや夢の話か?
うつつか、まことか、それとも幻影か?
いや、どうともいえない世界のことか?
腹底からふつふつと立ち上ってくる痺れのような熱さを感じた90分間だった。
いや、この熱さこそが絶対的にリアルな世界なのだ! と…
現実か、夢か、入れ子構造の劇中劇か、過去と未来とが垣間見れるとされる、合わせ鏡のように、位相の異なるシーンが冒頭からラストまで客を煙に巻くように、まこと、うつつ、幻影が紡がれていく音楽劇。
虚構と現実を行き来しながら思いと思いが交錯し、肉と肉がぶつかり合いながら、時には破廉恥に時にはシリアスに、性格のまったく異なる登場人物芽衣子(鈴木紀子)と波美子(佐原由美) をメインに描かれていく。明智小五郎役の佇まいと凛々しい声が印象的な鈴木紀子、怒りに燃える波美子役からキュートな小林少女役へ、それぞれの役の魅力をうまく演じきっていた佐原由美も心に残る。
あるシーンではまことか、うつつか、どちらともつかない世界で芽衣子と波美子が3,11後の福島の現状を悲哀をもって語りあい、あるシーンでは高校の文化祭で上演される芝居の劇中劇シーンさながら、アクション満載のエンターテイメント風に演じられていく。次第にどれが現実で、どれが劇なのか判然としなくなってくる。そんな中、クライマックスへ。
どのシーンもほとんど動き回っている役者陣たちの奮闘ぶりも楽しめるが、それに負けず劣らず、作者の思いのつまった直球勝負のセリフが胸に突き刺さってくる。
アフタートークで一人のゲストが話題に挙げていたが、劇中にゲストが登場してくるシーンがあった。おそらく虚構な劇空間にリアルなゲストを登場させ、二項対立的世界をかき混ぜようとした意図であったと推察できるが、個人的には劇(芝居)への集中が途切れ、却って役者の気持ちを慮ってしまい、すぐにトークに集中できなかった。が、こういった浮遊した意識も、すべては虚構だと解釈すれば、楽しめるのだろう。
只、演出と思いのつまったセリフの熱量とのアンバランスさが気になってしまったが、この微妙なアンバランスをどう昇華していけるか、客の力量が問われるのか?!
しかしながら、なんでもありなエンターテイメントな劇空間は、見るものを飽きさせない。
劇中に通低しているのは、夢と現実、幻影と現実、性(一部女装、同性愛が描かれる)や境界の問題にしろ、二項対立的価値観の向こう側を描いている。どちらともいえない世界の提示だ。それが虚構の演劇を通し、果たしてラストにどういったメッセージを投げつけてくるのか?
波美子「芽衣子先生、報告があるんです。私、教員採用試験受かりました。来年の春から」
芽衣子「波美子。それは夢の話でしょ」
波美子「先生・・・気づいてる・・・・」
敢えて直接には提示せず、われわれに爆弾を投げつけてくるラストに作者の思いが込められているように感じられた。
劇後、帰途につきながら、ある思いに引っ張れていく。
最近、読了した安藤礼二氏の評論。
鈴木大拙の語る「空」の思想やエックハルトとスウェーデンボルグの語る、「体験」の思想について語っていた。いかに現実に空の思想を体現できるのか?いやひょっとしたら、演劇にもそのような二項対立的価値観の向こうの世界が描けるのではないか?鈴木大拙は「経験」から「純粋経験」へ、そして、”心”に行き着くことになる。自らのなかに映りこんだ、自らの心を見つめている”心自体”だ。今風にいえば、”あるがまま”となるのか。劇中のセリフにも「演劇は自分事なんだって」で語られていたような気がする。
作者は、そういった”あるがまま”の自らの心自体を描きたかったのではないのか? そう思えば思うほど、作者のリアルな焦燥や怒りがストレートに心に突き刺さってくる。
そう思いながらメモ帳とボールペンを取り出し、今の思いをしたためようとした。その時だ。得たいの知れない欠落感に襲われた。「ない!」「糸がない!」ボールペンに巻きつけていたはずの糸が消えている。どこかに落としたのか? いやそんなはずは。。。と、バックのなかをまさぐるも見つからない。確かに上演前にボールペンに糸を巻きつけた、スペース早稲田の客席で。それが消えている。うつつか、まことか、それとも幻影か?そう思えば思うほど、良い夢を見終えたあとの目覚めのような、すがすがしい思いに全身が満たされていく。駅の改札を抜け、ステーションビル前に数台の消防車が停まっていた。近くの居酒屋でボヤがあったらしい。周囲の建物の壁に点滅している赤色灯の光だけがやけに眩しく映っていた。(敬称略)
昨夜は福島の劇団ユニット・ラビッツ「幻影城の女たち〜胡蝶の夢編」(作・演出=佐藤茂紀、監修・演出=流山児祥)@Space早稲田。「ラッキー☆アイランド〜のこされ島奇譚」(2014年)、「あれからのラッキー☆アイランド」(2015年)と、原発事故以後のフクシマの風を東京・早稲田に吹き荒れさせて3年目。ストレートな言葉を大胆な奇想に乗せた、熱量の高い舞台となった。
福島の高校で演劇部の顧問をしている芽衣子(鈴木紀子)は、かつての教え子で今は同僚の波美子(佐原由美)と共に、新作の稽古指導に余念がない。出し物は女子高演劇部が江戸川乱歩のパロディー「怪人二十面相vsジャパン」という、あんまりな作品に挑むというメタシアトリカルな芝居。霧子(竹本優希)、双葉子(松岡沙也華)、凜子(鹿又由菜)の女子部員に、明らかに男子が女装しているとしか見えないタケ子(山下直哉)、ウメ子(遠藤聖汰)、マツ子(成田浬)も加わって、ダラダラ稽古は進んでいく。なぜかカメに化けた二十面相に挑む美少女探偵団と明智探偵、小林少年。ところが、二十面相の野望がどんどんエスカレートし始めたことから、物語全体が制御不能の暴走状態に陥っていく。
ボーイッシュで意志的な鈴木と、ガーリーで情熱的な佐原という対照的なWヒロインがチャーミング。共に自分との距離が取りにくいセリフが多くタフな役どころだが、それをはっきり意識してえんじている姿勢に共感する。ガタイの良ささえなぜか笑えるOGS(おじさまにしか見えないシンドローム)3人組の破壊力も無敵だ。
ベクレル、シーベルト、嚢胞、甲状腺??。
舞台には被曝関連の言葉がこれでもかと飛び交う。そして、明確な閾値も示されずなし崩し的に進んでいく復興≠ニいう名の棄民、いともたやすく事故の傷跡を忘れ、オリンピックに血道を上げる度し難いこの国の人々への、やるせない怒り。過去2作を上回るストレートな言葉の思いはそのままに、しかし客席をたじろがせる攻撃性を中和しているのが、二重三重に仕組まれた入れ子構造であり、自分たちさえ笑ってしまおういう貪欲な被曝ギャグであり、ダイナミックにもほどがあるイメージの飛躍であり、執拗に繰り返される夢への言及だ。とにかく笑いのネタは馬に喰わせるほど仕込まれているのだが、題材が題材だけに迂闊に笑っていいのか、という客席の戸惑い感がこれまた面白い。乱歩の「現世は夢、夜の夢こそ真」という至言が作品全体の通奏低音となって、とっちらかりそうな物語をグッと引き締めている。
歌あり、踊りあり、活劇ありのエンターテインメント。勢いに任せ過ぎたところや、逆にも少し丁寧に扱ってほしいところなど、細部に注文はないではないが、この題材をこうした形で描こうという蛮勇は大いに買いたい。まさにフクシマ発でしか作りえない舞台だ。
怪獣は登場するもののまだ物語が日常と地続きだった「ラッキー☆アイランド」、日本地図から福島県が消えた、というショッキングな設定で始まる「あれからのラッキー☆アイランド」、そして今回終盤に待ち受ける想定外と、作品を重ねるごとにイメージ仕掛けは大がかりになっている。一方で言葉はよりストレートになり、鬱屈の内圧はどんどん上がっているように見える。
この5年の越し方がフクシマをどんどん追い詰めている。それを目の当たりにする思いで、舞台を賑やかす笑いの奥の言葉をかみしめた。(敬称略)
今日、11月4(金)お昼過ぎ、1週間の福島・郡山稽古を終えて、帰京しました。
嵐のような連日お昼から深夜23時過ぎまでの12時間ハード稽古でなんとか、創り終え(演出)ました。キチンと、まだ「仕事」ができるオトコだぜ。
北村真実先生の1日の振付でシャープに立体化、後を受けてステージング、ミザン、役者の関係の構築と解体、一気に5日間でわたしなりに『幻影城の女たち』という佐藤茂紀のテキストを「再構築=演出・監修」してみた。
20分以上刈込み、1時間20分あまりの「疾走劇」に・・・・いやあ、オモシロいテキストにオモシロい『幻影城の女たち』のドラマになった。
来週の10日(木)〜13日(日)@Space早稲田でフクシマ産の音楽劇、『幻影城の女たち」上演です。
時間があったら、ぜひご覧ください。流山児★事務所の竹本優希、佐原由美の2大新鋭美人女優そして、怪優:山下直哉が飛び跳ねています。
2015年の大ヒット作『あれからのラッキー☆アイランド』を超える「フクシマの現在」を描く超問題作です。シン・ガメラだぜい。
ご期待ください。Space早稲田で待ってます!
いま、フクシマでメチャ過激でハードな芝居をムスメタチ・ムスコタチと創っています。
『幻影城の女たち』(佐藤茂紀:作)@郡山:劇団ユニットラビッツ稽古場で、連日お昼過ぎから23時過ぎまで、久々の12時間稽古で連日ヘロヘロです。
これって、ほとんど演劇ジャンキーの1週間です!それにしても、まだ、わたくし「体力と妄想力だけ」は、ありそうです。
で、今夜も日本酒2杯と、ハイボール2杯で、ナチュラル・ハイ!
熱情のロックン・ロールの日々。
我輩は転がる石=意思である。
ただただ、楽しき、野たれ死にへの幻視行を続けるだけである。
それにしても、演劇は面白い、でもって、ニンゲンは面白い。
憎まれっ子「世に憚り」続けますのでこれからも末永く、よろしくお願いします!では、もう一度、私、69=ROCKです。
では、いつものように、スペース早稲田で待ってます。
佐藤茂紀の新作『幻影城の女たち』の追い込み稽古での、監修・演出協力の為。北村真実先生も一緒。
ラフに「粗通し」を見る。
面白いところもあればまったくだめなところも。
そんなものといえば芝居なんてそんなものである。
3・11から5年半、フクシマの《現実》をスーパーリアルに描きながらキチンと《現実を批評》するテキストをエンターテインメントにするのが私たちの仕事である。
で、昨日は1日中、ステージング=空間設計と動きの再点検。
ぜーんぶ「演出」を変えるのは「私の仕事」ではないので、演技と演出の方向性の差異やら齟齬の調整をしようと思っている。
劇団ユニット・ラビッツの「あれからの5年半」が、「ここ」にある。必見の作品になる。フクシマ県産のアナーキーミュージカル。2015年の問題作と呼ばれた『あれからのラッキー☆アイランド』を超える芝居にします。ぜひ、スペース早稲田においでください。
・・・・・・・・・・・
で、わたしは、2017年1月スペース早稲田ロングラン公演宮本研:作『メカニズム作戦』の上演台本をやっと書き上げた。
※なお、『音楽劇・メカニズム作戦』の前売り予約開始は11月25日(金)です。予約はお早めに!!
http://www.gekidankyo.or.jp/performance/2016/2016_07.html ……
でもって、今日からスペース早稲田は早稲田演芸場に様変わりしています。ただいま絶賛仕込中です!!
「おせつと京太と流山児事務所の谷、山丸りな、星美咲」コラボレーション『お江戸のたこやき』です。
11月1日から6日まで絶賛上演中です。
ふらりと、早稲田までおいでください。
で、7日から愈愈フクシマから『幻影城の女たち』がやってきます。
さあ、今日は紀子と佐原の個人稽古からはじめて前半シーンのチェック。
フクシマの空は今日も晴れ渡っています。