★台湾藝術雑誌ARTALK 長編評論『第十二夜』
BY:鴻鴻 (詩人、作・演出家) 翻訳/陳重穎
2018年年末、僅か2ヶ月の間に、シェイクスピアのラブ・コメディー『十二夜』をミュージカルに改編された作品が台湾で2回も上演された。10月の淡水雲門劇場(淡水Cloud Gate Theater)での公演は、台南人劇団バージョンで、時代背景は1930年代の上海に設定され、生演奏を伴い、クラブをメイン・ステージに、歌と踊りをショーアップした上に、「人生こそお芝居」というテーマを浮き彫りにした。
一方、12月の国立台北藝術大学演劇学部バージョンは、「日本アングラ演劇の帝王」である流山児祥が客員演出家として演出。注目すべきは、音楽担当は両方とも柯智豪(カー・チーハゥ)だった。彼の豊富な劇場経験によって、伝統音楽を始め、ポップ、ジャズ、テクノ、抜群な取捨選択のセンスで、二つの『十二夜』のカンパニーに招かれたのも偶然ではないかもしれない。
流山児祥は2002年『狂人教育』台湾上演以来、台湾の演劇界を震撼させ続けている。彼の劇団(流山児★事務所)及び、シニア劇団(シアターRAKU)の多数のツアー公演にせよ、OURTHEATERとの二回のコラボである『マクベス』と『嫁妝一牛車』にせよ、鮮明なスタイルは一目瞭然で、今回の北藝大の学生らとコラボした『十二夜』もまた、その流山児スタイルを極致に至るまで発揮した。エネルギー全開のパフォーマンス、千変万化の場面変化、パッと、ビシッと、ズバッと、のリズムで切り替え、いたずらに劇中から抽出して劇場の現場から観る「メタシアター的視点」、そして「脇役=民衆の視点」を際立たせる群集シーン。
これらの特徴はただの芸術的選択ではなく、むしろ流山児祥の世界観に密接に関係している。群集シーンを例として説明すると、シェイクスピアの芝居は、そもそも「多数の脈絡」が織りなされながら、鮮明な個性の持つ脇役も少なくない。流山児祥はこれを使いこなし、モンタージュ手法で「多数の脈絡」を同時に視覚化させた上、役者たちに個々人の差異を帯びた歌舞団に集結させ、時折メインラインの周囲で傍観し、批評、煽動する。同時に、何人かの「庶民=道化」を登場させ、観客に対してツッコんだり、愚痴をこぼしたり、袖のスタッフと対話したりする状況をも配置し、さらに彼らに「途中休憩」の主導権もあたえ、暫くの間、舞台の中心を占拠させて芝居の焦点を移転する傍ら、「庶民=道化」こそが「世界を突き動かす歯車である」ことを指示し、徹底的に観客のココロを揺さぶる。
台南人劇団の『十二夜』カンパニーのような演技力と歌唱力のある役者とは違い北芸大バージョンは表現力に若干優劣があるのは否めない。開演し始めて直に役者の台詞の言い方や歌い方にやや不十分なところがあると感じ取れたが、間もなく、この問題は徐々に重要視されなくなる 〜 彼らの集団的エネルギー及び金の含有率の極めて高いパフォーマンスにおける細部のデザインが、繰り返し、繰り返されて観客に感情的共鳴を呼び起こす〜各キャラクターの独特な動きにジャングリング芸人さながらの身体表現がシェイクスピア的ドラマコメディをビジュアル的インパクトの鮮明な個性的演劇に変容させる。なおかつ、ジェンダー、セクシュアリティ、階級意識等を頻繁に芝居に持ち込み、原作の裏に潜む意味を曝きだし、このキャラ的倒錯の芝居を鑑賞する観客の視点を反復に調整している。
『十二夜』のコメディ的核心は、ヴァイオラとセバスチャンの双子の扮装及び勘違い、「ジェンダー的装い」が生じた無力感と錯謬は現代における経験に繋がれやすい。劇中の兄妹を同一人物と見間違われるいきさつは、古典コメディによく使われるネタであるが、今時の演出には往々にして視覚的不合理さがある。シェイクスピアの時代では全ての女性役は男性が演じたが、流山児祥はそれを逆転し、兄弟二人とも女性に演じさせ、二人におけるリアリティのズレを最低限にさせる。そして、観客が全編にわたって妹が男装したことを知った上で、最後に兄役も女性役者が演じるのを見ても違和感すら感じられなかった。一方が「劇の中」のズボン役で、もう一方は「劇の外」のズボン役、さらに、芝居中に入ったり傍観的視点で抽出したりするメタフィクションによって、文脈がより一層整理整頓されたように覚える。
ヴァイオラとセバスチャンの兄妹再会後に、全役者が客席まで乱入し、劇場全体を巻き込んでダンスすると同時に、スタッフらが舞台をバラし始める。まるで、喜劇のありきたりなハッピーエンドであると思いきや、向かってくるのはそれと違う意味深長なエンディング ― 役者全員が踊り疲れ果て舞台に倒れてしまい、そして、ゆったりと、靴を脱ぎ、劇場外へと立ち去っていく。役者たちの一足一足の靴が舞台上に残され、さながらキャラクターのお面のよう、再び「演じる」というメインテーマを提示し、舞台に湧き溢れた熱狂的リズムの終焉に、悠々たる余韻が流れ始める。
この画面は正しく前半のハイテンションシーンと呼応し合い:ヒロインの執事(マルヴォ―リオ)が「偽」のラブレターを拾った際に、歌い上げた狂気な幻想、このシーンでは役者らは、ほぼ裸で、手に歌詞のカンペを持って下半身を隠しながら、次から次へと執事の後ろを通り過ぎて行き、絶妙なユーモアを引き立てた。恋を謳歌するように見えるこの喜劇中に、脇役(マルヴォ―リオ)の感情が往々にして翻弄され、嘲笑わられたあげく、良い終結を全うすることができない。全編にわたって流山児祥の「真」「偽」の弁証法を通じて、シェイクスピア晩年の鬱憤な世間のしがらみは少しずつ繊細に浮き彫りになる。
近年では国際的コラボレーションが盛んであるが、演出家が言語的隔たりによって情緒や関係性に対する表現の手加減を間違ってしまう問題がよく見える。にもかかわらず、多数のコラボ経験を積み重ねてきた流山児祥の作品には、非の打ち所なく、国際コラボレーションの模範と言っても過言ではない
去年12月台北藝大で上演した『十二夜』の長編劇評がでました。ご一読ください。
★台湾藝術雑誌ARTALK 長編評論『第十二夜』
BY:鴻鴻 (詩人、作・演出家) 翻訳/陳重穎
2018年年末、僅か2ヶ月の間に、シェイクスピアのラブ・コメディー『十二夜』をミュージカルに改編された作品が台湾で2回も上演された。10月の淡水雲門劇場(淡水Cloud Gate Theater)での公演は、台南人劇団バージョンで、時代背景は1930年代の上海に設定され、生演奏を伴い、クラブをメイン・ステージに、歌と踊りを合理化させた上に、「人生こそお芝居」というテーマを浮き彫りにした。一方、12月の国立台北藝術大学演劇学部バージョンは、「日本アングラ演劇の帝王」である流山児祥が客員演出家として演出。注目すべきは、音楽担当は両方とも柯智豪(カー・チーハゥ)だった。彼の豊富な劇場経験によって、伝統音楽を始め、ポップ、ジャズ、テクノ、抜群な取捨選択のセンスで、二つの『十二夜』のカンパニーに招かれたのも偶然ではないかもしれない。
流山児祥は2002年『狂人教育』を台湾で上演以来、台湾の演劇業界を震撼させ続けている。彼の劇団(流山児★事務所)及び、シニア劇団(楽塾、シアターRAKU)の多数の巡回公演にせよ、UURTHEATERとの二回のコラボであった『マクベス』と『嫁妝一牛車』にせよ、鮮明なスタイルは一目瞭然で、今回の北藝大の学生らとコラボした『十二夜』もまた、その流山児スタイルを極致に至るまで発揮した。
エネルギー全開のパフォーマンス、千変万化の場面変化、パッと、ビシッと、ズバッと、のリズムで切り替え、いたずらに劇中から抽出して劇場の現場から観る「メタシアター的視点」、そして「脇役=民衆の視点」を際立たせる群集シーン。
これらの特徴はただの芸術的選択ではなく、むしろ流山児祥の世界観に密接に関係している。群集シーンを例として説明すると、シェイクスピアの芝居は、そもそも「多数の脈絡」が織りなされながら、鮮明な個性の持つ脇役も少なくない。流山児祥はこれを使いこなし、モンタージュ手法で「多数の脈絡」を同時に視覚化させた上、役者たちに個々人の差異を帯びた歌舞団に集結させ、時折メインラインの周囲で傍観し、批評、煽動する。同時に、何人かの「庶民=道化」を登場させ、観客に対してツッコんだり、愚痴をこぼしたり、袖のスタッフと対話したりする状況をも配置し、さらに彼らに「途中休憩」の主導権もあたえ、暫くの間、舞台の中心を占拠させて芝居の焦点を移転する傍ら、「庶民=道化」こそが「世界を突き動かす歯車である」ことを指示し、徹底的に観客のココロを揺さぶる。
台南人劇団の『十二夜』カンパニーのような演技力と歌唱力のある役者とは違い北芸大バージョンは他の学生制作と変わらず、表現力に若干優劣があるのは否めない。開演し始めて直に役者の台詞の言い方や歌い方にやや不十分なところがあると感じ取れたが、間もなく、この問題は徐々に重要視されなくなる 〜 彼らの集団的エネルギー及び金の含有率の極めて高いパフォーマンスにおける細部のデザインが、繰り返し、繰り返されて観客に感情的共鳴を呼び起こす〜各キャラクターの独特な動きにジャングリング芸人さながらの身体表現がシェイクスピア的ドラマコメディをビジュアル的インパクトの鮮明な個性的演劇に変容させる。なおかつ、ジェンダー、セクシュアリティ、階級意識等を頻繁に芝居に持ち込み、原作の裏に潜む意味を曝きだし、このキャラ的倒錯の芝居を鑑賞する観客の視点を反復に調整している。
『十二夜』のコメディ的核心は、双子の扮装及び勘違い、「ジェンダー的装い」が生じた無力感と錯謬は現代における経験に繋がれやすい。劇中の兄妹を同一人物と見間違われるいきさつは、古典コメディによく使われるネタであるが、今時の演出には往々にして視覚的不合理さがある。シェイクスピアの時代では全ての女性役は男性が演じたが、流山児祥はそれを逆転し、兄弟二人とも女性に演じさせ、二人におけるリアリティのズレを最低限にさせる。そして、観客が全編にわたって妹が男装したことを知った上で、最後に兄役も女性役者が演じるのを見ても違和感すら感じられなかった。一方が「劇の中」のズボン役で、もう一方は「劇の外」のズボン役、さらに、芝居中に入ったり傍観的視点で抽出したりするメタフィクションによって、文脈がより一層整理整頓されたように覚える。
兄妹再会後に、全役者が客席まで乱入し、劇場全体を巻き込んでダンスすると同時に、スタッフらが舞台をバラし始める。まるで、喜劇のありきたりなハッピーエンドであると思いきや、向かってくるのはそれと違う意味深長なエンディング ― 役者全員が踊り疲れ果て舞台に倒れてしまい、そして、ゆったりと、靴を脱ぎ、劇場外へと立ち去っていく。役者たちの一足一足の靴が舞台上に残され、さながらキャラクターのお面のよう、再び「演じる」というメインテーマを提示し、舞台に湧き溢れた熱狂的リズムの終焉に、悠々たる余韻が流れ始める。
この画面は正しく前半のハイテンションシーンと呼応し合い:ヒロインの執事(マルヴォ―リオ)が偽のラブレターを拾った際に、歌い上げた狂気な幻想、このシーンでは役者らは、ほぼ裸で、手に歌詞のカンペを持って下半身を隠しながら、次から次へと執事の後ろを通り過ぎて行き、絶妙なユーモアを引き立てた。恋を謳歌するように見えるこの喜劇中に、脇役(マルヴォ―リオ)の感情が往々にして翻弄され、嘲笑われたあげく、良い終結を全うすることができない。全編にわたって流山児祥の「真」「偽」の弁証法を通じて、シェイクスピア晩年の鬱憤な世間のしがらみは少しずつ繊細に浮き彫りになる。
近年では国際的コラボレーションが盛んであるが、演出家が言語的隔たりによって情緒や関係性に対する表現の手加減を間違ってしまう問題がよく見える。にもかかわらず、多数のコラボ経験を積み重ねてきた流山児祥の作品には、非の打ち所なく、上手く学生制作をプロ級の演劇レベルに昇華させ、国際コラボレーションの模範と言っても過言ではない
流山児祥台北藝大演出家コースで出色のビル全体を使った重田誠治:演出作品『冬の博物館』写真見てやってください。
というわけで、昨夜は台北芸大演劇学部の大学院流山児祥演出クラスの送別会。とっても「優秀な若き演出家」たちと。一杯喋った。
みんな、また、会おうぜ。ありがとう。
今日はイーランまで足を延ばして最後の台湾の夜。
明日はイーラン観光、深夜に台北、17日お昼には東京。
8か月の台湾生活も終わりである。
流山児祥「演出家コース」フェスティバル6日目である。
ビル全体を劇場化=博物館にしてしまった重田誠治:演出の『冬の博物館』
野外劇。観客はレッドカーペットを通って客席へ。
当初のイメージ通りの重田ワールドをちゃんとやってくれた。兎に角、凄い事である。学生がやりたいことを「自由に」やらせてくれる大学もすごい。
暗闇に明かりがつくと博物館の男がシルエットに浮かび上がりモノローグが始まる。大がかりな装置、オブジェ、絵画、屋上も遠景も、いやあ、面白かった。5人の役者も実にイイ。『第十二夜』チームのユキもルーシーも良かったよ。雨も降らず、あと2ステージ、愉しんでやれよ。
昨夜は桐朋学園の教師で演劇評論家の高橋宏幸氏も観劇してくれた9月・10月に8回開講した「流山児祥演出家コース」の生徒6人の発表フェスティバル(台北藝大初の試み)も、愈々、明日:13日(日)で終幕です。
6人の演出家がそれぞれ全く違うアプローチで村上春樹の短編にインスパイアされた作品を創っています。それもかなり高い水準の力作ぞろいです。日々、私自身が「勉強の日々」です。で、今日と明日が最もスペクタクルな2作品です。
台湾の若者たちの身体に確実に存在する「政治性=体制に対する違和」が、演技の骨格である当事者性が舞台に現出する。日本の若者の薄っぺらさではなく、妙に、温度を持った「リアル」や「エロス」が立ち上がる。村上春樹のテキストは合湾や韓国の若者の『現在』を描くのには合うのかもしれない・・・・なんてことを考えている1週間である。
日曜スペシャルは劇場の内と外!で2本の作品が観られます。是非、おいでください。「入場無料」です!!
ビル全体を劇場=博物館にしてしまった重田誠治:演出の『冬の博物館』、まさに野外劇。昼に散歩がてら「仕込み」を観てきたが凄い!の一言。音響も照明も凄い、おまけに観客のレッドカーペットまで創ってるぜ。セットも大がかり、各階にも装置、屋上も遠景も・・・・・よくぞやった!これだけで、褒めてとらす。プレゼンの時は無理だろ?それは、と思ったが・・・・曇り空の本番3時間前だが降らないでと祈るしかない。
明日は千穐楽。ウエイウエイ:演出の祝祭革命劇『踊る小人』、夜の回をウエイウエイが20時30分にしてくれた。19時30分に『冬の博物館』のラストステージを観て『踊る小人』のファイナルへおいでください。
いや、素敵な生徒たちである。14日(月)打ち上げで大いに飲もうぜ!
かくして、6か月の台北生活ももうすぐ終わりである。
OURシアターが《嫁妝一牛車》に続いて《再約》も第17回台新芸術賞にノミネートの快挙!2作品ノミネートです!
まさに、2018年台湾演劇界トップに嘉義OURシアターが躍り出た年になったね、凄い!おめでとう!!
關渡には何もない、と言ってごめんなさい。
今日、あっちこっち歩いてみたら「なんでもあり」ました。