【様々なる劇評ー長編劇評】
近年、流山児★事務所の芝居を明快に「批評」していただいているいつもの竹森俊平氏の「劇評」が届きました。ありがとうございます。
■竹森俊平
13日の「流れる血」のマチネを拝見しましたが、これだけ素晴らしい戯曲の上演を見たのは生涯でも何度もなかったのではないか。それほど衝撃を受けました。ともかく、やさしく、美しく、心に残るのです。
なぜ、そうなのか、ちゃんと書けるか分かりませんが、トライしてみます。
まず、この芝居は記憶を辿っていきますよね。
殺人犯が事件間際に過ごした女性とのひと時(何という美しい場面でしょう。夏子を演じられた女優の方、初めて舞台で拝見しましたが、とても感動しましたか)。
子供時代に、さらに子供時代へと記憶は戻っていく。
殺人犯の「過去」に戻る芝居は数限りなくあり、平凡なものはその人物が異常な行動に走る精神の流れをドキュメンタリー風に追うのでしょう(ここでも編集者はそれをやろうとします)。
この芝居ではそうしないのです。
殺人犯の幼少時代の明と暗をそのままに再現する。
明の部分は、子供の無邪気な戯れ、喜び。
前々から山下直哉さんには注目してきましたが、今回は本当に凄かったですね。山下さんは本当に子供のように舞台で笑えるのです。そうだからこそ、彼が狂気に走った時は、背筋が寒くなるほど怖いのです。
結局、どんな人間でも多くの喜びの瞬間を経験している。
しかし、その喜びの経路から外れることがあると、挫折と焦燥の循環という地獄に陥っていく。
三上さんは喜びと挫折をうまく配分して主人公の人物像に入り込むのですが、結局、「紙一重の差」で挫折の方へと追いやられていくことがわれわれに伝わります。
そういう「検死報告」的な分析としても面白いのでしょうが、しかしこの芝居がわれわれに与える感動はそこではありません。
台本の出だしで登場人物がみな言うように、われわれは「紙一重の差」だろうと何だろうと、ともかく惨劇を起こした主人公を「あれ」として、われわれの関りのある「人間」から外そうとする。
では、その人物が「あれ」ではなくて、誰もと同じような「喜び」と「挫折」を味わい、「紙一重の差」で怪物になるよう
追い込まれていくことが分かったらどうなのか。
それが分かるプロセスが舞台で演じられたらどうなのか?
われわれは「不都合な真実」に直面して、居心地が悪い思いをするのか?
そのような芝居は居心地の悪い芝居になるのか?
そうではないのです!!
そうではなく、そのような芝居はわれわれに懐かしさを感じさせ、快い感情さえ呼び覚ますのです。それを分かっていること、つまりわれわれの心理の本当に奥深いところを深く理解していることが、この三上さんの芝居の本当に、本当に凄いところだと思います。
「あれ」と言って一般世界や自分とは関りがないと疎外される人間が、われわれと同じく「喜び」や「挫折」を感じることを知った時のわれわれの感情。なぜ、それを「懐かしい」とわれわれは感じるのか。実は芝居を見た後、ずっとその事ばかり考えていたのですが、譬えて見ればこんなことでしょうか。
かつて自分が両親と長いこと住んでいた家が、今や取り壊されて廃墟になっている。ところがその廃墟を訪れた時、瓦礫の山の中に自分の幼少時代に覚えがある品物を発見した。
その時の懐かしさ、その場所は全部「死んでいる」と思い込んでいただけ、自分の生存との関りを明瞭に思い出せるものがあったことで、「生きている」と分かった。
その発見により、強く、懐かしく、しかも快い感情にわれわれは浸る。
秋葉原殺傷事件の犯人のそのような「喜び」や「挫折」を描いた劇を上演することが、その「犯人」を正当化することになる
といった見当はずれの批判が起こることがあるかもしれません。
まったく、そうではないのです。
われわれは秋葉原の事件がいかに恐ろしい、許しがたい事件だったかを知っています。それを知っているからこそ、その犯人が「生きている人間」で、「喜び」と「挫折」のせめぎ合いの中で、「挫折」に追い込まれることになったという「展開」が悲劇として感じられるのです。われわれがこの悲劇を強く感じることができるのは、われわれがこの事件自体を許されないものと感じているからです。
伊藤弘子さんの演じられた母親は、主人公と違ってわれわれは初めから「怪物」と認識しているわけではないのですが、劇が進む中で実は本当の「怪物」は母親だと分かっていく。
ところが劇の終わりに近づいて、その怪物にも「喜び」と「挫折」があったことが分かる。文字通り、そこで「人間の血が通う」のです。その転換の場面、心を打たれました。
この芝居を見て一つ思い出した別の芝居があります。
それはいつかドイツで見た「わが闘争(マイン・カンプ)」という芝居で、ヒットラーが主人公です。
ただし政治家になった後のヒットラーではなく、若い時、ウィーンで画家になる修行をしていた時のヒットラーで、同じ下宿に住んでいる他の学生との交流ややり取りが主題になっています。
書いたのはジョージ・タボリというドイツとアメリカで(アメリカではハリウッドで)大活躍した作家です。
その劇の中では、画家ヒットラーがいずれ恐ろしい人間になる兆候も、たしかにところどころに出ていました。
しかし劇の中心は他の学生たちとの会話、将来の芸術家としての夢とか日々の暮らしとかに関わるもので、ヒットラーはあくまで芸術家になることを夢見る青年です。
私の拙いドイツ語では理解が覚束なかったのですが、ともかく芝居を見た時に強烈な印象を受けました。
その時に呼び覚まされたのは、「懐かしさ」「すがすがしさ」といった感情で、そのことは今でも忘れられません。
なぜ、そのように感じたのか、自分でもよく分からなかったのですが、今回の三上さんの芝居を見てようやく分かりました。
「怪物」が人間だと分かること、それはわれわれに「居心地の悪さ」ではなく、「懐かしさ」の感情を与えるのです。
社会学者にはそれが分からないのでしょう。
彼らは、ヒットラーや秋葉原の殺人犯を人間として描くことは、彼らを容認することで怪しからんと感じる。
今回の三上さんの芝居、見事なエピローグがついていましたね。まったく説明的でなくて、ドライで、素敵なのです。
主人公が「川の字に寝ること」は気が付かなかったといって消えて往く。思い起こすと、「わが闘争」のヒットラーも迷いながら、すっと暗闇に消えて行きました。
どちらの劇でも、われわれは宙吊りの状態に残されます。
こういう「落ち」を書ける作家は本当に素晴らしいですね。
17日にこの芝居をもう一度見に行きます。